PM 11:49
午後11時49分。
すっかり夜も更け、『スマッシュブラザーズ』の世界にはしばしの静寂が訪れる。
それはファイター達の宿泊する"城"も例外ではなく、さえ渡るような月夜の下、周りの森と共に穏やかな眠りについていた。
見張り塔に掲げられたかがり火はどれもまどろむように瞬き、微風に煽られては揺らぐことを繰り返す。
一日の試合も終わり、夕食も済んで。
遊び疲れた年若い者はすでに夢の中。彼らより年が上の者も、大半はすでに自分の部屋に戻っていた。
今日が去って昨日となり、明日が追いついて今日となるまでのラグタイム。
多くの仲間が翌日の試合に備えて眠りにつく中、
わずか数人だったが、今日という日を惜しむかのように、まだ起きている者もいた。
◆
照明がわずかに落とされ、眠気を誘う明度に包まれた廊下。
毛足の短い絨毯の上を歩き、トレーニングルームに向かうフォックスの足どりはしっかりとしていた。
ズボンの横ポケットに手を入れ、歩いていく彼の格好はいつもの通りであったが、
腰のホルスターに収められたブラスターは、新品同様の輝きを放っていた。
それもそのはず、このブラスターは今日転送されてきた修理済みのものなのだ。
「フォックスはファルコと違って、乱暴な扱いしないから修理も楽だよ」
映話の向こうで、スリッピーはそう言って笑った。
何光年もの距離と、それよりもさらに計り知れない超空間距離を隔てた会話。
久々のクルーとの会話に花が咲き、気がついたらこんな時間になっていた。
ちゃんとフォックスの癖に合わせて調整されてはいるだろうが、明日は第1試合が予定されている。
念のため、新しいブラスターの性能を把握しておかなければならない。
「つくづく思うぜ、お前はホントにくそまじめだな」
先ほど行き先を尋ねてきたファルコは、フォックスの返答を苦笑と共にそう評した。
スリッピーから「クリスタルがフォックスの様子を気にしてたよ」と言われたことを思い返し、
自然と口元がほころんでいたフォックスだったが、トレーニングルームの前に着く頃にはいつもの真面目な表情に戻っていた。
しっかりと顔を引き締めるとドアノブに手をかける。
ドアを半分がた開けたところで、フォックスは立ち止まった。
こんな時間に利用者がいるとは思わなかったのだ。
紺色の髪の青年が、バーチャルステージへの転送装置から降りてくる。
顔を上げ、そこでフォックスがいることに気づいたようすで、挨拶した。
「…おう」
フォックスも片手を上げて応えつつ、こう尋ねる。
「どうした、今日はずいぶん夜更かしだな」
クリミアの傭兵、アイクといえばファイターの中でもかなり早寝早起きを貫いているほうだった。
そんな彼が、まもなく明日になろうというこんな時刻まで起きているとは珍しい。
アイクは頭をかき、少し眉をしかめる。
「いや…どうにも眠れなくてな」
「そうか。まぁ、あんまり根を詰めない方が良いぞ」
そう言ってフォックスは、空いている転送装置で適当なものを選んだ。
パネルを操作し、ターゲットモードに設定する。
円筒状の光が足下から伸び、がら空きのトレーニングルームの光景が遠ざかっていった。
限りなく黒に近い灰色の格子が現れ、それが次第に仮想ステージの形を取っていく中、フォックスはさっきのやりとりを思い返していた。
――やれやれ。ずいぶん真面目くさった物言いをしてしまったな。
別に俺は彼のリーダーって訳じゃないのに。
他の仲間なら何か気の利いた冗談でも言うんだろうな。
彼は肩をすくめ、気を取り直してブラスターを抜いた。
腰を落とし、準備態勢に入ったフォックス。もうその目は、真剣に獲物を追うハンターの目になっている。
呼応するようにして、いくつもの的が浮かび上がった。お馴染みの、赤と白の縞。
◆
1階のリビングルーム。
騒がしい日中とは打って変わって、室内には穏やかな空気が流れていた。
照明は適度な明るさに抑えられ、置き時計がゆっくりと今日の残りを刻んでいる。
実際、窓際のソファには1人のファイターが腰掛けていた。
今日一日の試合を終えた金髪の女性は、乱闘用のゼロスーツではなく普段着に着替えていた。
カーキ色のカーゴパンツとノースリーブの黒いシャツ。かなり男性的な取り合わせではあったが、
この普段着はかえって彼女の整った体格を強調し、一部の男性ファイターには挑発と受け取られている。
そしてもちろん、彼女にそれを指摘する者はいない。
彼女 -サムス- は足を緩く組み、膝の上に開いた本を乗せていた。
紙媒体の情報など、彼女の世界ではとっくに過去の遺物となっている。
それでもあえてその形態で読むのは、不思議と時間を有意義に過ごせた気分になるからだった。
誰もいない広々としたリビングルームをたった1人で独占し、異世界のルポに読みふけるサムス。
しばらく、室内には時計の音と、ページをめくるかすかな音だけが響いていた。
ふと、サムスは顔を上げる。
顔があった少年は、戸惑ったように目を瞬かせた。
戸口に立つ、黄色と白のしま模様のパジャマ。抱きしめられた、恐竜のようなぬいぐるみ。
金髪の少年、リュカは入ろうか入るまいか迷っているようであった。
サムスは、彼に優しく問いかける。
「どうした。眠れないのか」
「…はい」
彼は小さな声で答える。
サムスは頷きかけ、再び本に目をおとした。
リュカはその仕草に許容の気配を感じとり、部屋に足を踏み入れる。
サムスの座るソファ。それと直角をなすように配置された低めのソファに、リュカはそっと腰掛ける。
相変わらず緑色のぬいぐるみを抱き、うつむき加減にテーブルを見つめて。
いたずら描きのされた画用紙と、箱から威勢良くはみ出たクレヨン。
子供たちがそのままにしていった、日常の痕跡。
だがリュカの目は、そのどれをも見ていなかった。
サムスはさり気なく、少年の様子を窺う。
普段から内向的な目をしている彼だったが、今夜は特に閉じこもった目をしていた。
ぬいぐるみを抱く手には、きつく力が入っている。
何かを一人で抱え、真っ暗な穴に向き合っている。
その様子には、見覚えがあった。彼女自身が、深く知っている感情だった。
リュカが『スマブラ』に来た当初から、サムスは何か勘づくものがあった。
彼は似ている。家族を喪った、昔の自分と。
しかし、彼女はそこから踏み込み尋ねることはしなかった。
喪失の傷を癒すものは、時の流れのみ。
無理に辛い思い出を語らせて、古傷をつつくことはしまい。そう思ったのだ。
ここに来て同年代の子供達と遊び、彼の表情は日を追うごとに少しずつ明るくなっていた。
以前よりも自然に笑うようになり、うち解けて話している様子が見られた。
それでも、こうして夜が来て1人になると、思い出してしまうことがあるのだろう。
――…私も、そうだった。
サムスは、心の中で少年に言った。
◆
不規則に揺れ動くターゲット。
誘うかのように横に出てきたそれを無視し、フォックスは遠方の1つを狙い撃つ。
眩い光線が一条、空間を走る。
陶器が割れるような音を立て、ターゲットがくだけた。
間髪おかず、フォックスは横のターゲット、壁をすり抜けて逃げようとしていたそれを撃ち抜いた。
"New Record!"
人工音声のアナウンスが入り、ステージ横の空間にスコアが表示される。
「…まずまずだな」
そう言ったものの、フォックスの口は上機嫌そうな笑みをうかべていた。
調子は上々だった。トリガーを引いた後の反応速度、反動、連射。全て申し分ない。
くるっとブラスターを回してホルスターに収め、同時に、空いた腕にはめている時計に目をやる。
夜更かしには慣れているとはいえ、明日の朝は早い。
アイクに言った言葉ではないが、あまり根を詰めると試合に響くだろう。
「あと1セット…ってところか」
小さく呟いて、宙に浮かんだ"Retry"の文字を軽くタップした。
◆
今日も、そうだった。
ふと、目が覚めてしまったのだ。
静かな部屋。自分の他には、誰もいない。
孤独を意識すると、ますます目が冴えてしまった。
ベッドとタンスと机が置かれた小さな部屋のはずなのに、見上げる天井はひどく高く、暗く見えた。
わざわざ部屋を出てリビングルームに来たのは、誰かに会うことを目的にしていたのかもしれない。
友達はみんな寝てしまっているだろうけれど、誰かがいてくれさえすれば良い。
1人で向き合うには、その淵はあまりにも深すぎたのだ。
明かりと
音を立てず、そっと隣の大人の顔を窺う。
彼女、サムスは先ほどから熱心に本を読んでいた。
題名は読めたが、一体何について書いてある本なのかは分からなかった。
とにかく、彼女が熱中するくらいだから難しい本なのだろう。リュカはそう結論づける。
難しそうな本を読むサムスの顔には、いつもの張り詰めた空気はなかった。
日中の騒ぎから遠く離れ、こうして静かに自分のペースでくつろいでいる。そんな様子だった。
そこまで考えたとき、ふとリュカの頭に、自分がここにいては迷惑なのではないかという思いがよぎった。
サムスは1人で静かに本を読みたいから、こうして真夜中のリビングルームにいたのではないか、と。
リュカは気づかれないように瞳を見つめ、感情を読もうとする。
やがて、色々な気持ちが聞こえてきた。
本の内容に向けられる熱心な集中。さっと過ぎていった、ごく軽い後悔…おそらく今日の試合に向けられたもの。
明日も起こるであろう騒動への、淡々とした興味のようなものも感じられた。
そしてその背景を流れるのは、表情に表れていたものと同じ。穏やかな感情だった。
少なくとも、邪魔には思われていないらしい。
リュカはほっとし、目を閉じる。
もう少し。気分が落ち着くまで甘えても良いだろう。
なぜかは分からないが、リュカはこの遠未来のバウンティハンターに親近感を抱いていた。
共通点などない。向こうは孤独を貫く勇敢な大人。
周りの友達の中には、彼女のことを"こわい大人"だと思っている人もいる。
でも、なぜだかリュカはそう思わなかった。
冷静な物言いの向こうにちゃんとした暖かさを感じていたからかもしれないが、
"あの人は僕と似ている"。そんな根拠のない、しかし強い確信があったから。
◆
ターゲット訓練を好成績で終えて、転送装置から城に戻ってきたフォックスは目を丸くした。
「おいおい、まだ起きてたのか?」
室内のマイクが彼の声を拾い、仮想ステージでザコ敵と戦っているアイクに届く。
"……"
彼はこちらにちらと視線を向けた。ちゃんと聞こえた、という彼なりの応答なのだろう。
だが剣を振るう手は休めず、次々に金属的な仮想敵を倒していく。
フォックスはしばらく腕を組んで立ち、アイクが戦う様子を観戦していた。
さすがはマスターハンドに見込まれた戦士。
動きに無駄はなく、繰り出される一挙一動は確実に敵の動きを制していく。
普段の乱闘では落ち着いて眺めることのできない剣技を、フォックスはじっくり観察した。
切れのある動きに感心していたという理由もあるが、
可能なら彼の弱点を掴みたい、という実にファイターらしい思いもあった。
しかし、ふとその顔に怪訝そうな表情が浮かぶ。
やがてこちらに帰ってきたアイクに、フォックスは尋ねた。
「大丈夫か?」
「…何が? いや…大丈夫だ」
彼はそう言って首を振ったものの、どこか心ここにあらずといった顔をしていた。
その顔を、フォックスはじっと見る。
眠くはないと言っていたが、そうではない。明らかに眠気があるのに、それでいて眠れないのだ。
しばらく考え込んでいたフォックスの頭に、ひとつの可能性が浮かび上がった。
「アイク、今日何か飲まなかったか?」
「今日…?」
眉をひそめ、首を傾げる。
散逸していきそうな集中力を、何とかしてまとめようとしている努力がうかがえた。
そして、彼は答える。
「ああ、そういえば…ルイージの飲んでいた飲み物をもらったな。
ひどく苦かったが、あれはなんて言ったか…」
「コーヒー、だろ?」
予想は当たった。
フォックスの答えに、アイクは頷く。
「あぁ、それだ」
それがどうかしたのか、と言いたげな表情を向けてくる彼に、フォックスはさらにこう確認した。
「あんた、多分何も入れないで飲んだんじゃないか?」
「牛乳と砂糖を入れるかって聞かれたが、断った。別に必要ないだろうと思ってな」
その様子がありありと想像できた。
ルイージの飲む、見慣れない飲み物。興味を持ったアイクは、少し分けてくれと言う。
ルイージは気前よく注いでくれただろう。苦いから牛乳か砂糖を入れた方が良いと彼は言うが、
そんなに苦いものじゃないだろうと高を括って、アイクはそれを断る。
牛乳や砂糖なんて、子供の使うものだと思ったのだろう。
笑いそうになるのを必死にこらえて、フォックスは説明する。
「いきなりブラックで飲むものじゃないんだ、コーヒーっていうのは。
まぁ、そりゃあ生まれつき強いやつもいるが、初めはミルクでカフェインを薄めて慣らしていった方が良い。
今のあんたは、カフェインのせいで目が冴えてるんだ」
「…そうか」
いまいち理解できていない様子ではあったが、アイクはそう言って頷く。
どのみちカフェインの集中力が切れて、回転しすぎた脳が疲れてくるころだろう。
「今日の所はここまでにして、早く寝たほうが良い。
眠れなくても、目を閉じてれば多少はましだろう」
そのアドバイスに、今度はアイクは素直に従った。
「消灯はやっておくからな」
廊下を遠ざかっていく背中に声を掛けると、
「あぁ。頼む」
振り返らず、彼は少し疲れた様子で手を振った。
小さくなっていく、くたびれたえんじ色のマント。
それを見送り、フォックスはトレーニングルームの電源を切った。
◆
"ボ オ ォ ォ ォ ン …"
間延びした音が響き、サムスは本から顔を上げた。
12時を告げる、初めの鐘の音だった。
何の気なしに置き時計の方角を見ていた彼女だったが、そこでふと気がつき、横に顔を向ける。
リュカはまだそこにいた。いつの間にか眠っている。
ぬいぐるみを抱きしめるその手には、もう余計な力は入っていなかった。
サムスは、無心に眠る少年の表情をしばらく眺める。
彼女の目はわずかに細められているが、口は平時と変わらず真一文字。
リュカが眠ってしまっている今、彼女の感情を言い当てられる者はここにはいなかった。
何番目かの鐘の音が鳴る。
やがてサムスは立ち上がり、起こさないようにそっと少年を抱え上げると、部屋を後にした。
◆
鐘が鳴る。
外は相変わらずの、美しい月夜。
星は下界に関心を示さず回り続け、街は眠りの底に佇んでいる。
時はいつも、ただ進み続ける。
鐘は、"今日"という日の終わりを告げる。
ある者は夢の霧の向こうで、ある者は静寂に沈んだ部屋の中でそれを聞く。
まもなく、今日が終わる。日が昇れば、また新しい一日の始まりだ。