気まぐれ流れ星二次小説

白衣の名探偵

-モロー邸の人狼-

※まえがき

この話は、いつも書いている日常ものとは設定が異なっています。
オリジナル設定や、非ファイターのゲームキャラも出てきます。
ここによく似たどこかで、ファイターと同じ姿をした普通の人々(ただし1名を除く)が暮らす。
そんな世界の物語です。

「よし、今日の授業はここまで」

教壇に立つ白衣の教授がそう告げると、途端に講義室に音が戻ってきた。
帰り支度を始める者、居眠りから覚める者、黒板の内容を急いで書き留める者。

急速に放課後の空気が訪れた講義室。
この大学にあるどの学部でも見られる、いつもの光景だ。
教授は学生達から受け取った出席票を束ね、カバンを肩に引っかけて教室を後にした。

実験でもないのに白衣を着込み、ふさふさの口ひげを蓄えているその男、教授にしては若々しい。
それもそのはず。
彼は、弱冠30代にしてこの名門、ニンテンドー大学に赴任してきた若手教授なのだ。

彼の名は、ドクター・マリオ。
しかし、近頃はこう呼んだ方が通りが良いだろう。

"白衣の名探偵"と。

大学内のみならず、この地域一帯で起こるありとあらゆる事件を解決する頭脳の持ち主。
毒物、密室、アリバイ、トリック、何でもござれのマルチプレイヤー。

それでいて、知識をひけらかすこともなく全く気取るところのない態度、
中肉中背の親しみやすい30代であることも手伝って、彼の名は大学の外にも広まりつつあった。

しかも彼が研究室を構えるのは、この大学で最も新しく建てられた建物である"総合研究棟"。
発展と成長に伴っていささか細分化し、近視的になっていた諸学問を再び交通させ、
そこから全く新しい知を得ようという、学長じきじきに指揮を執ったプロジェクトの結晶である。

ニンテンドー大学の総合研究棟と言えば、研究者にとっては憧れの存在。
そんな楽園に研究室を構え、しかも名探偵としての名を揚げつつある彼であるが…しかし。
総合研究棟の自室に向かう彼の顔にあるのは、誇りではなく苛立ちと怒りであった。

彼は自分の部屋がある区画に入り、一層足を速める。
廊下にかつかつと靴音が鳴り響くが、今はそれ以上に向こうから聞こえてくる若者の話し声が騒がしい。

ついに騒音の元凶、自室の前にたどり着くと、
マリオは眉をしかめ、扉を勢いよく開ける。

そして、怒鳴った。

「お前らいつ入っていいと言った! とっとと出てけ!」

<プロローグ>

偉大な知の交流。
そりゃ結構なことだが、しかしせめて学生棟とは距離を空けて建てるべきだったんじゃないか?

怒鳴られても懲りた様子はなく、笑いながら部屋を後にしていく学生どもをうんざりと見やりつつ、
俺は、総務課に直訴するという案を半分真面目に考えた。

「うるさいって苦情を受けるの、全部俺なんだからな!」

最後の学生を追い出し彼らの背にそう言うと、俺はドアに鍵を掛けてソファに投げやりに腰を下ろした。

自然とため息が出る。
人通りの多い総合研究棟の2階とはいえ、他にこれほど学生にたかられる部屋はない。
しかも彼らは別に、俺が研究する"微生物薬理"に興味があるわけではないのだ。

目の前のテーブルにはトランプにカードゲーム、基礎物理学か何かの過去問等々、学生達の忘れ物が散らばっていた。
つまり、彼らは丁度いい多目的室として俺の部屋を使っているのだ。

またこれを片付けなきゃなんねーのか…。
ただでさえ午前中は密室殺人未遂のトリックを説明させられた・・・・・ってのに、
これじゃ俺の仕事がいつまで経っても終わりゃしない。

それもこれも…

「うるさいったって、おじさんの怒鳴り声のほうがよっぽどうるさいんじゃないの?」

からかうような声がして、俺はそいつにむっとした視線を向ける。

だぶだぶの黒い革ジャンを着て、ジーンズのポケットに手を入れている茶髪の少年。
俺の不満げな視線など全く気に掛けず、
そいつは、中に着ているTシャツと同じくらい真っ白な歯を見せてにやっと笑った。

白衣の名探偵
- モロー邸の人狼 -

最初に言っておこう。
俺は名探偵ホームズなんかじゃない。むしろワトソンだ。

で、本物のホームズは俺の部屋にいる居候。
現役バリバリの30代を、こともあろうに"オジサン"呼ばわりするローティーンだ。
俺はただ、そいつの推理を代理で説明してやってるだけ。

なぜわざわざそんなことをするのか。
それは、我らがホームズ君は決して人の注目を浴びてはいけない存在だからだ。

"ピット"と名乗るそいつは自称天使。少なくとも有翼の人間。
嘘じゃないぜ。彼の着ている革ジャンの中には、立派な一対の翼が隠されている。

初めにこいつを世話してたのは、俺の学生時代の恩師ナナカマド博士。
怪我を負った状態で空から落ちてきたピットを発見し、その後ずっと大学の部屋に匿っていた。

今年の春に博士は定年を迎え、故郷のシンオウ大に帰ることになった。
だが戸籍もない天使を飛行機に乗せるわけにもいかず、頼ったのが、偶然ここに赴任してきた俺だったってわけだ。

断ろうとしたさ。
俺だって色々と忙しいし、何より「こいつとは絶対に気が合わない」って俺の勘が言っていた。
でも、あの博士は辛抱強いことで有名だ。彼の頼みを断れる人がいるっていうなら一度お目にかかりたい。

根負けした俺は、"ナナカマド博士の孫"として通っている有翼の厄介者を、翼が完治するまで預かることになってしまった。

こいつは、学生の間じゃすこぶる評判が良い。
まぁ顔は悪くないし、学生相手なら愛想も良いし、年のわりに機知がある。
"ピット君"目当てに俺の部屋に来る学生も多いのだ。

それに、彼のお陰で迷宮入りを免れた事件はすでに、両手じゃ数え切れないくらいある。
見た目は小生意気なローティーンだが、推理の才能は並大抵のもんじゃないのだ。
彼曰く、暇つぶしに天上から人間観察してたから、人を見抜く目だけは鍛えられたんだとか。

だが、常識ってもんは壊滅的なほど持っていない。
だからうっかり正体をばらさないよう、誰かが面倒を見てやらなくちゃならない…ってわけ。

俺にとっちゃ災難のもとでしかない。
天使のおかげで、俺の部屋は学生のたまり場になるわ、面倒な推理の裏方仕事は任されるわ…。

そんなこんなで俺のニンテン大生活1年目は、最悪のスタートを切っていた。

第1章 探偵、弟に電話をかける

<10月28日>

後期が始まって1ヶ月。
構内の半分が森林とも言われるニンテンドー大学は紅葉のシーズンを迎え、学生にまじって観光客の姿も見える。
カメラを構える彼らの横を、学生も先生方も中間試験のことで頭を悩ませながら通り過ぎていく。

俺も薬理学の問題を10点分任されてたんだが、余裕を持ちすぎて気がついたら締め切りまで1週間を切っていた。

まぁ、何とかなるだろう。
俺は肩をすくめる。
まずは昼飯。問題を考えるのはそれからだ。

総合研究棟から渡り廊下を歩いて5分。
そこに、収容人数800人を超えると言われるニンテンドー大中央食堂がある。
それでも昼時は席の取り合いになるんだからうちの大学はよっぽどの大所帯らしい。

こういうとき独り身は楽だ。
俺は空いている席に白衣をさっとひっかけ、配膳のおばちゃんのところへ行ってラーメンを買ってきた。
できたてのそれをこぼさないよう、不規則に動く学生連中の波をかいくぐって席に戻る。

ふと見ると、隣の席に見慣れたもしゃもしゃ頭が座っていた。
ラーメンのどんぶりを置くついでに、そいつの顔を横から覗き込む。
無精ひげにぶ厚いめがね、やせ形の20代。

「よぉ、ハル」

椅子に腰掛けつつ俺が声を掛けると、向こうも笑顔を見せて軽く手を上げ、「やぁ」と返した。

彼はハル・エメリッヒ。
俺と同期でここに採用され、工学部で二足歩行ロボットの研究をしてる助教授だ。
何かと顔を合わせることも多いし、分野が離れてるから気兼ねなく話すことができる。

「またひげ伸びてるぞ、そろそろ剃っとけよ」

と俺がお決まりの言葉をかけると、ハルは初めて気がついた様子で顎に手を当てて確かめる。

「あれ、本当だ。
最後に剃ったのいつだったっけ?」

「相変わらず忙しいみたいだな」

「まぁね、でも研究は順調に進んでるよ。君のところはどうだい?」

「とりあえずは薬理学の試験かなー」

そう言いながら俺は手早く割り箸を割り、麺を口に運ぶ。
助教時代の赴任先で出会って以来、すっかりラーメンにはまってしまった。
脂も塩分も多いが、やめらんないんだよな。

一口目を片付けて、続ける。

「…院生が集まったらそろそろやってみたいテーマもあるんだが」

するとハルは笑ってこう言った。

「少なくとも君の所は困らないんじゃないかな。
来年あたり君の研究室の倍率は跳ね上がると思うよ」

「ん? なんでだ?」

「考えてみてよ、探偵さん」

不思議そうな顔をする俺に、ハルはいたずらっぽい笑みを見せる。

「"白衣の名探偵"と一緒に研究ができるなんて、学生にとっては願ってもない幸運だ」

「おいおいよしてくれよ」

ハルの純粋な尊敬の眼差しを、俺は苦笑いで受け流す。

全く、名探偵を演じるのは楽じゃない。
俺は何もしてないのに、若い連中や同僚からは憧れの眼差しで見られ、お偉方からは胡散臭そうな目を向けられる。

「ほら、"噂をすれば"かな…?」

そう言ってハルが食事に戻ったので、俺は後ろに近づいてきた足音のほうに顔を向ける。

落ち着いた茶色の長髪を後ろでしばった女学生。紫色をメインにしたブラウスに長めのスカートをはいている。
一見院生に見えたが、いや、それよりは若いだろう。

彼女はそこで一度立ち止まり、会釈した。

けっこう上流の家庭の出だな。
瀟洒な出で立ち、端正な顔立ちを見てとった俺はそう推理する。
この程度なら、あいつの探偵ごっこにつき合わされた俺には分かるのだ。

だが、彼女は俺の学部の生徒じゃないな。
ハルの言ったとおり、彼女は依頼主だ。

果たして、女学生はこう切り出した。

「初めまして、マリオ先生。
演劇部の部長を務めています、ゼルダと申します。
あの…実は、先生に相談したいことが…」

そこで彼女は少し左右を見て、声を落としてこう続ける。

「ひと月ほど前から、私達の部活動で使っている小道具がいくつか見あたらないのです。
部室で保管し、ちゃんと鍵も掛けていたのですが…。
初めは部員のどなたかが間違えて持って帰ってしまったものと思いました。
でも、私が尋ねてみてもどなたも心当たりはなく…。
そうこうしている間にひと月も経ってしまいましたし、もしかしたら…盗まれたのではないかと」

心の底から心配そうな顔をしている部長に、俺は真摯な名探偵の顔で頷きかける。

「なるほど、つまり窃盗も視野に入れた失せ物探し、という依頼だな?
分かった。後で俺のほうから部室に行くから、詳しい話はそこで聞こう」

「受けていただけるのですね…! ありがとうございます」

失礼しますと頭を下げて、彼女は雑踏の中に消えた。
今時珍しいくらい礼儀正しい生徒だな。

…おっと、こうしちゃいられない。
急いで食事に戻らなくては。
昼休みはまだあるが、麺は待っちゃくれないのだ。

「大変だね」

そんな俺の様子を、事件解決に燃える姿と思ったらしい。
ハルが少し同情する声で言った。

「ん? …いや、まーな」

俺は笑ってごまかす。

失せ物探しくらいなら、あいつは一瞬で解決しちまうはずだ。
大方雑然とした部室のどっかに埋もれてたとか、そんなオチだろう。

総合研究棟2階。
俺がドアノブに手をかけるよりも早く、突然扉が開く。

ドアにぶつからないよう、俺はさっと一歩下がった。こういうことにはもう慣れている。

「それじゃお邪魔しましたー」

「失礼しまーす」

「あーあ、またあのセンセーの微積かぁ」

「ピット君、また放課後来るから」

「4時半集合な!」

間もなく、がやがやと学生が出てきた。
ドアの陰になっているとはいえ、俺には気づきもしない。
当然、学生達の顔が向いている方向は部屋の中だ。

「またどうぞ~!」

部屋の中から少年の声が答える。

学生達が廊下の向こうに消えたことを確認し、俺はようやく部屋の中に入る。
入ってすぐのとこに置いてある客用のソファ。そこにうつぶせに寝っ転がった天使の姿があった。
サイズが二回りは大きい革ジャンを着込み、いつものように、その姿勢で本を読んでいる。

「またどうぞーってなぁ…ここは俺の部屋なんだぞ。
で、お前は居候。分かってんのか」

と、一応釘を刺したものの、

「おじさんがいない間は僕が守ってるんだから、実質僕の部屋と言っても良いでしょ」

小生意気な口調で返されてしまった。本から顔を上げもしない。
さっきまでの愛想の良い少年はどこへやら…。
…ま、これがいつものやり取りだ。

「そんなことよりまた依頼だぞ、名探偵」

俺はソファを回り込む。
すぐにテーブルの上の乱雑さが目に入ってきて、俺は思わず顔をしかめる。
また学生どもが散らかしていったのだ。

空っぽになったポテチの袋、赤点のテスト用紙、転がっているクッキーの包み。
その他、鼻をかんだティッシュなどなど。

今日はその中から目立って、単行本の山がそびえ立っていた。
水色の背表紙には、『遊撃隊 スターフォックス』とある。
今ピットが読んでいるのもそれだった。

どっかで聞いたタイトルだな。
…ああ、最近噂の宇宙冒険ものか。しかし、こんな本持ってたっけかな。

「おい、この本どこから持ってきたんだ?」

そんな俺の質問をまるで無視して、ピットは俺に一瞥をくれる。
そして、呆れたように言った。

「またラーメン食べたんだね?」

「え?」

不意を突かれて固まる俺に、天使は無慈悲に指を突きつけるとこう続けた。

「胸元の茶色い汁はね、口ひげにネギ、そして罪悪感のあるその顔つき。
脂の取りすぎが体に良くないことを知ってるのに。
…まったく、人間は分からないなぁ」

ため息を一つつき、読書に戻る。
そこでようやく俺は調子を取り戻し、こう言い返した。

「俺が何食おうと勝手だろ?
それよりも、受けるのか、受けないのか。
と言っても、もう話を聞く約束はしちまったんだけどな」

「ふぅん、どんな用件?」

ピットは、顔だけこちらに向ける。

「演劇部部長からのじきじきの依頼だ。
なんでも部室に置いてあった小道具が消えちまったらしい。
1ヶ月経っても戻ってこないし、盗まれたんじゃないかって話も出てるんだと。
…ま、どこか別のとこに置きっぱなしにして、忘れてるだけなんだろうけどな」

俺がそう言い終わらないうちに、

「いや、そうじゃないね」

反論を食らってしまった。

「演劇部は11月中旬に公演がある。
きっと、無くなった小道具はそれに必要なものだ。
そうでもなきゃ部長さんがわざわざ、おじさんに頼みには来ない」

「なんだ、彼女のこと知ってんのか?」

「1年もここに住んでたら、だいたいの人間の顔は分かるよ。特にここに来た人はね。
彼女はかなり慎重で責任感の強い人だ。
おじさんの手を借りようと決心する前に、少なくとも3回は部室をあらためてる。
それに、おじさんが思ってるほど演劇部の部室は散らかってないんだよ」

「へいへい、何でもお見通しってわけか…」

俺は肩をすくめ、降参する。
論理じゃこいつに敵わない。

「それで、どうする?
俺も忙しいからな。聞き取りに行ってやれる期間は限られてるぞ」

「11月に入ってからで良いよ」

天使は軽い調子で答えた。

「ああ、そうしてくれると助かる。試験問題を提出してから取りかかれるしな。
…まさかそれを知ってたのか?」

「いや、今はこれを読んでしまいたいんだ。
正直、演劇部の泥棒よりこっちの本の方が面白い」

そうだよな、こいつはそういう奴だ。
面白いか、面白くないか。それで全てを判断しちまう。

ページをめくりながら、ピットはこう続けた。

「複雑な事件なら、彼女も直接ここに訪ねてくるはずだ。
急いではいるけれど、まだ緊急じゃない。
話を聞いた限りじゃ、食堂で偶然おじさんを見かけたから、予約を取るような気持ちで話しかけたんじゃないかな。
おじさんは多忙だからね」

「全くだ。誰のせいだと思ってんだよ」

机の上の食べかけのお菓子やら、教科書やらルーズリーフの切れ端やらを一緒くたにゴミ箱にぶち込みつつ、
俺は天使に思いっきり不満げな目を向ける。

だがピットは本から顔を上げず、涼しげに返した。

「どういたしまして」

これもいつものやり取り。
俺はため息をつき、机の復旧作業に戻った。

10分後、ようやく仕事に取りかかれる状況に戻した俺は、
コーヒーサーバーから一杯のコーヒーを取り、ようやく自分の椅子に腰を下ろした。

パソコンの電源を点けかけたとき、俺の事務机に一枚の紙が放り出されているのに気がつく。
一色刷の紙。何かのビラか、ポスターだ。
紙面の方向に顔を合わせ、俺はそれを読み上げた。

「サウィンタウン、ハロウィンフェスティバルのお知らせ…?
サウィンと言えば、この近くじゃないか。
そうか、もうそんな時期なんだなァ…」

宵闇の中、庭先ではジャック・オ・ランタン達の、滑稽で不気味な笑顔が浮かび上がる。
差し出した手に渡されるチョコレートやクッキー。
誰が一番奇抜でいかした怪物に化けたか。近所の友人と競い合ったこともあったっけな。

ハロウィン。あの日だけは、遅くに外出することを許されたんだ。
今じゃいつ出かけたって誰にも咎められなくなっちまったが。

少々の感慨と共に、俺はほろ苦いコーヒーを口に含んだ。

そこに突然。

「ああ、それね。僕も行くよ」

天使がこともなげにそんなことを言い、虚を突かれた俺はむせてしまった。

ひとしきり咳き込んだところで、俺はピットを詰問する。

「あ…あのなぁ。
ハロウィンが何なのか、お前分かってんのか?」

「知ってるよ。天界から見てたし。
人間の子供が仮装して、出歩いてお菓子をもらう祭りでしょ? とても面白そうだ」

「そうだ。あれは外に出る必要のある行事だ。
だがお前は滅多に出歩けない身なんだぞ。もし誰かに正体がばれたらどうする?
お前は研究者に引っ張りだこ、俺と博士は質問ぜめ!」

「大丈夫だって」

ピットは俺の剣幕をよそに、軽く手を振る。

「僕ぐらいの見かけの子は、その日みんな仮装する。
オバケに妖精、包帯男やスーパーヒーロー。
その中に1人くらい天使がいたって怪しまれない。でしょ?」

「しかしなぁ…」

なおも渋る俺に、天使はこう言った。

「もう博士の許可は得てるよ。
空の上から見てるだけじゃ分からないことも多いだろうから、実際に参加して楽しんできなさいって」

…全く、ナナカマド博士らしいな。
あの人は教育においても、若者の好奇心を尊重する方針を持っていた。

「なるほどな。
じゃ、俺の10月31日は丸1日潰れるってわけだ」

「そういうこと」

俺の苦労も知らずに、ピットは頷いた。
こちとら、慣れない土地で天使がうっかり口を滑らせないよう、夜になるまで周りに目を光らせてなきゃならないんだぞ。
それに祭りが始まればサウィンまでの道は混むし、ビラにあるとおり町内の車道は通行止めになる。
どこかに宿を見つけるなりして、朝から乗り込んでおく必要があるのだ。

しかし、こいつの正体がばれる心配のない宿…あったか?

まてよ、サウィンといやぁ…そうだ、俺の弟が知り合いから管理を任されている屋敷マンションがあったな。
あそこなら一度ピットも連れてってるし、住人達も"ナナカマド博士の孫"のことは知ってる。
まぁ、社会経験のため俺の所にホームステイしてるって程度の理解なんだが。
ともかく、余計な詮索をされる心配はないだろう。

早速俺は携帯電話を取り出し、双子の弟、ルイージに電話を掛ける。

『―やぁ兄さん。どうしたんだい?』

数回のコールの後、聞き慣れた声が言った。

「急にすまないな。
31日、そっちの町で祭りがあるだろ?
ピットがそれに行きたいって言っててさ。部屋、どこでもいいから空いてる所ないか?」

『今ちょうど2階の角が空いてるよ。
それより兄さん、こっちに来るんだね?
ちょうど良かった。実は兄さんにちょっと見てもらいたい事が起こっててさ…』

歯切れの悪い口調に、俺は事件のにおいをかぎ取る。

「何かあったのか?」

『うん。
その…笑わないで最後まで聞いてほしい』

いつになく真面目な声になって、弟は言った。
俺も思わず姿勢を正し、話の続きを待つ。

『サウィン郊外の廃墟。そこに出るって噂なんだよ…狼人間が』

第2章 探偵、人狼を目撃する

<10月29日>

最初の予定より2日も早く、俺はサウィンタウンに向かうことになった。
いつもの通り。天使の気まぐれで、日帰りのはずが計3日の滞在となったわけだ。

「狼人間だなんてそんな非科学的なもの、いるわけがない。
もし本物だとしたら興味深いものだね!」

そう言うお前の方がよっぽど非科学的だと言ってやりたかったが、
現に俺の目の前に実在してるからな。

それに、俺も今回の事件には少しばかり興味をそそられていた。
探偵ったって、いつも奇天烈な事件に遭遇してるわけじゃない。
大半は失せ物探しとか身辺調査とか、そういう地味な仕事ばっかりなのだ。

そこに来て、この人狼事件。
久々に大物の予感だ。

「おい、ちゃんとシートベルトしろよ」

車を運転してるので、俺は振り返らずに注意する。
ミラーには、ドアに背を預けて足を座席に載せ、『スターフォックス』を読んでいるピットの姿が映っている。

「なんであんな窮屈なものをつけなきゃならないのさ。邪魔なだけだよ」

「あいにく法律でそう決まってるんだ」

「ふーん、大方車が事故を起こしたときに、乗ってる人間が飛んでいかないようにするためだろうけど。
でも、最初っからそんな速さ出さなければ良い話だ。
ベルトしてたってスピードが出てれば怪我するでしょ」

「あのなぁ…そんなノロノロ運転してたんじゃ車に乗ってる意味ないんだよ」

ちょうど赤信号に突き当たったので、俺は呆れて振り返る。

「自転車や馬車でも構わないじゃないか。
なんで人間は何もないときに急ごうとするんだろう。
…おじさん、ちゃんと前見て運転してよね」

前に視線を戻すと、信号が青になっていた。

サウィンの住宅街。
平地に四角い一軒家がずらっと立ち並ぶ、典型的なベッドタウン。
その入り組んだ通りの終点にあるのが、弟の管理しているマンションだ。

鉄柵に囲まれた広い敷地、今時珍しい3階建ての洋館。
色調は暗いし、デザインも古風でいかにも何か出てきそうな古屋敷。

実際、ここは以前"幽霊屋敷"と呼ばれていた。
夜な夜な家具が勝手に動き、誰もいないはずの部屋からは足音が聞こえていた。
地元の住民からは恐がられ、中々住んでくれる人も見つからなかった。

俺とピットが以前ここに来たのは、その事件を解決するためだった。

俺達は、屋敷に現れる"幽霊"が、地下室に潜んでいたこそ泥の仕業だと見抜いた。
こそ泥は逃がしちまったが、あれ以来幽霊騒ぎは起きていないそうだ。

あれからマンションの居住者も増えたらしい。
最初、いくら知り合いの頼みとはいえ古屋敷を任されてしまったお人好しの弟のことが少し心配だったのだが、
どうやらそれは俺の杞憂だったようだ。

「やぁ兄さん! ピット君も久しぶり!」

屋敷の門まで出迎えに来た弟は、相変わらず紺のオーバーオールを着ていた。

「またその格好してるのか。下宿人に清掃員と間違われるぞ」

俺がからかうと、弟は肩をすくめて笑う。

「だって、これが一番動きやすいんだよ」

屋敷の管理と言ったって、庭の手入れや掃除くらい人を雇えばいいのに、ルイージはほとんど全てを自分でやっているのだ。
まぁ、好きでやってるみたいだから、俺もしつこくは言わないんだがな。

丁寧に刈り込まれた芝生、その上に伸びるレンガ道を歩いて俺達は洋館に向かった。

午前中はだいたいの住人が出払っているらしく、屋敷の中は静かだった。
窓は少ないが、廊下にはロウソクの光を摸した照明が灯っており、室内は適度に明るい。
古めかしい花瓶や絵も置かれ、静けさも手伝ってまるで中世の城にタイムスリップしたような気さえする。
誰かの部屋からかすかに聞こえてくるシャンソンが、辛うじて今が現代であることを知らせてくれていた。

2階に向けて、俺達は木造の立派な階段を上っていく。

「忙しいのに、2日も早く来てくれてありがとう。
本当に兄さんには世話になってばかりだね」

「良いってことさ。担当する講義は12月まで無いし、試験問題だってここで書けばいい」

そう言う俺の後ろから顔を覗かせ、ピットが聞いた。

「それよりルイージさん、この近くで狼人間が出たって本当なの?」

その話を早く聞きたくて待ちきれないって様子だ。
俺が内心で苦笑している横で、弟は真剣な顔をして頷いた。

「うん…。まだ間近で見た人はいないけれど、目撃情報はこの界隈で増えてる。
特にあの廃墟の近くで…」

そう言いかけたところで、俺達の部屋に到着した。
2階の角部屋、風呂にトイレに個室が3つ。
こんな部屋をタダで借りれるんだから、やっぱり持つべきは良い兄弟だよな。

「この話は後にしようか。2人ともくつろいでて。
僕は1階にいるから、何かあったら呼んでね」

そう言ってルイージは扉を閉めた。
俺はさっそくフカフカのソファに腰を下ろし、洒落た洋室を満喫しようとした…が、非情な天使の声が掛かる。

「休んでる場合じゃないよ。早くルイージさんの部屋に行こう」

「第一お前は何なんだよ。やっぱりルイージのことは"さん"付けで、俺のことはオジサン呼ばわりか」

えんじ色の絨毯が敷かれた廊下を歩きつつ、俺は声をひそめて文句をつける。

「僕は公平に扱ってるつもりだよ。
この目で見て、判断した品格にふさわしい態度で接してるだけだから」

俺のことを見おろしながら、ピットは澄ました顔で言った。

「つまり俺はオジサン相応の人間ってわけか?」

「だって、忙しいのを理由に仕事をほったらかしにしてるでしょ。
でもそのわりに部屋でいびきかいて寝てたりするし、網を張った木の棒でボールを打つ競技を見に出かけたりもしてる」

「そりゃそうだけどよ…。
でもなぁ、自由時間はどうしても必要なんだよ。心の休養!
…そうだ、それ以前にお前の―」

「僕の推理の代弁にしても、そんなに時間が惜しいならやらなきゃ良いでしょ」

天使は俺の言葉先をあっさりとかわした。

悔しいが、確かにそうだ。
思い返してみれば、こいつが自分の推理を誰かに話せと頼んだことは一度もない。
謎を解いて、満足してそれで終わりというやつなのだ。

そして俺は公務員。
いくら難事件を解決したところで、これっぽっちの報酬ももらえない。

でも、まだこの世の誰もが気づいていない事件の真相、本当の答えが目の前に落ちてるのに、
それを欲しがってる人に渡さないなんて、そんなの有り得るか?

「結局は俺も、お人好しってわけか」

ため息と共に、俺はルイージの部屋の戸をノックした。

案内されたのは、3階の角部屋。
ここを借りている人はいないらしく、家具やカーテンはきっちりと整ったまま、時間を止めて佇んでいる。

「ここにいた人は、こないだ別の町に移ったんだ。
こんな町には恐ろしくていられないってね」

少し沈んだ声でルイージが説明した。
リビングルームの窓に歩み寄り、その外を指す。

「ここから見える、あの大きな建物…分かるかな」

彼の指差す方向を目で追うと、
丘の上にたった一軒、森を背にして建つ石造りの屋敷が見えてきた。

2階建てだが敷地一杯にべったりと建てられており、一見何かの研究所のように見える。
そして、俺のその見立ては間違っていなかった。

「あの家は、モロー博士の自宅も兼ねた個人研究所だったんだ。
今は博士が亡くなったから無人になってるんだけど」

弟が言った名前に、俺は聞き覚えがあった。

「モロー博士…?
モロー博士といやぁどっかで…そうだ、感染症の研究で名前を見たことがある。
確か医学博士じゃなかったかな」

そう言うと、ルイージは意外そうな顔をした。

「偉い博士だって話は聞いてたけど、あの人医学者だったんだね。
てっきり生物学の先生かと思ってたよ」

そこでふいに、ピットが口を挟んできた。

「それで、その人と狼人間とどういう関係があるの?」

「あぁ、ごめんごめん。話がずれたね」

弟は素直に謝る。
こいつにそんな丁寧に謝ることはないぞ。

「僕が電話で言ってた狼人間は、あの研究所の近辺で見かけられてるんだよ。
この部屋に住んでた人も、夜に度々研究所の明かりがついて、
尖った耳と長い鼻面を持つ影がうろつくのを見た、と言っていたんだ」

「ルイージは見たことあるのか?」

俺はそう聞いてみた。

「いや、まだ。
…でも、このあたりじゃちょっとした噂になってる。
あの研究所には、"何か"がいるって。
誰も…僕も本気にはしてないけど、それでも…やっぱり心配でさ」

丘の上に建っているとはいえ、モロー博士の研究所から住宅街までは1キロもないだろう。
そんな近くに、得体の知れない怪物がいるかもしれないのだ。

狼人間の推理はピットの仕事。
俺もそのうち聞き込みを押しつけられるかもしれんが、今のところはフリーだ。

自分の仕事を終わらせるなら今のうちだ。
この3日間で試験問題を書ききって、あいつを見返してやる。ドクターの意地を見せてやるさ。

せっかくの秋晴れなので、俺は薬理学の教科書やら論文やらを小脇に抱えて屋敷の庭園に出た。
白木のベンチに座り、小鳥のさえずりを聞きながら今回のテスト範囲をチェックしていく。

俺が講義したのは抗菌薬の分野。
やたらと薬の名前ばかりぞろぞろ出てくる所だ。
俺が学生の頃、薬理学っていうもんはここに限らず薬剤名を延々と覚えさせられる教科だったんだが、
最近の学生はそういうの覚えられないって話だ。

それにしても、今頃学生達は悩んでるだろうなぁ。
何しろ10点分とはいえ過去問の蓄積が一切無い先生から出されるんだから。
でも、若いうちは苦労したほうが良いぞ。

…さて、どこから出そうか。
この作用機序なんて重要だよな。この併用も……

「…じさん、……おじさん」

子供の声で、俺は目を開ける。
周りを見ればいつの間にか日も暮れ始め、空気も冷たくなってきていた。
手元には薬理のテキスト。
ちくしょう、あれからちっとも進まないうちに寝ちまったらしい。

「あのー…」

ところで俺に話しかけてるのは誰だ?
ピットにしては声が幼いし、かなり大人しそうだ。

声を頼りに横を見ると、
花壇を挟んでその向こう、鉄柵の外に金髪の少年が立っていた。
年は10才くらい。ツタの絡む柵のすきまから顔を覗かせ、こちらを窺っている。

「なんだ、俺に何か用なのか?」

「あ、はい! …あの、えぇと…。
…おじさん、探偵さんですよね?」

おっと、また依頼か?
今日はやけに大漁だな。

そう思いつつ俺が頷くと、少年はぱっと顔を輝かせた。

「よかった…! 新聞とかで見たことあったから、もしかしたらって。
それでその……僕、探偵さんにボニーを捜してほしいんです」

「ボニー?」

「はい。僕の家族です」

立ち話もなんなので、俺はその少年、リュカを屋敷の庭に招いた。
テーブルを挟んで向かいのベンチに座った少年に、俺は改めて尋ねる。

「つまり、いなくなった君のわんちゃんを捜してほしいっていうことだな?」

少年はこくんと頷いた。

「よし、詳しく聞かせてくれ」

俺は早速メモ帳を取り出す。

…とはいえ、この依頼に取り組むのは狼人間の件が済んでからだな。
優先度は明らかにあっちの方が上だ。この子には悪いが、少し待ってもらおう。

「おとといからいなくなっちゃったんです。
外で飼ってたんだけど、犬小屋にもいなくって、つないでた綱も切られてて。
…きっと犬泥棒だと思うんです。ボニーを連れ去ったのは。
一週間くらい前からサウィンのあちこちで犬がさらわれてるんだけど、
その犯人のことを、みんなは"犬泥棒"って呼んでるんです。
何だか手口が似てるとかで、同じ犯人なんじゃないかって」

「被害にあったのは君のところだけじゃないのか」

俺はメモ帳から顔を上げ、確かめる。
こいつは思っていたより大きな事件らしい。

「はい。お隣さんのラブラドール、ケン君ちのミック、それにカリンさんのヘルガーも。他にもまださらわれてるみたいです」

「なるほど。
…ちなみに君のボニーはどんな犬なんだい?」

「焦げ茶の犬です。大きさはだいたい…このくらいかな」

そう言ってリュカ少年はベンチに腰掛けている辺りに手を示した。

「おすわりもできる賢い犬なんです。
そんなボニーが勝手に出て行くなんてありえない…やっぱり犬泥棒にさらわれたんだ」

少年の顔が曇る。
彼はきっと、"白衣の名探偵"がこの町に来たと聞いて探してたんだろう。
いなくなってしまった大切な家族を探す、頼みの綱を。

心の中で同情しつつも、俺は腕利きの探偵としててきぱきと聞き込みを続けるのだった。

「君がそう思う理由は他にもあるかな?
たとえば…ボニーの身代金を要求されたとか、家族に脅しの手紙が来たとか」

「いいえ…今のところないです。
犬泥棒は、犬をさらう他は何もしていかないんです。姿を見た人もほとんどいない。
"犬泥棒"っていう名前も僕たちが勝手にそう呼んでいるだけで。
もしかしたら、人じゃないのかもしれないし……」

俺の耳は、消え入りそうな最後の言葉を捕らえた。

「人じゃない?」

そう尋ねると、少年はびっくりしたように目を瞬かせた。

「えっと……それも言ったほうが良いですか?」

「ああ。事件に関わることなら何でも」

少年は少しの間ためらっていたが、やがてこう切り出す。

「僕の行ってる学校では、こう言われてるんです。
犬泥棒は狼人間だって。
狼人間が犬をさらって…食べちゃうんだって…」

「誰かそれを見た子でもいるのか?」

ずいぶん突飛な話だ。
子供たち特有のうわさ話に過ぎないだろうが、念のため聞いてみる。

「見たって言ってる友達もいます。でも…嘘だと思う。
僕のボニーもきっとそいつに食べられちゃったんだってからかわれたけど…そんなことない。
だって…狼人間は人しかおそわないんだ…そうですよね?」

問いかけた少年の瞳は、言葉よりももっと多くの思いを俺に突きつけていた。

日が暮れないうちにリュカ少年を家に送り、
俺が部屋に戻ると、フカフカのソファはピットに占領されていた。
仰向けになって、相変わらず水色の文庫本を読んでいる。

「おい名探偵。仕事したのか仕事。
それとももう謎は解けたのか?」

「いいや、まだだよ」

ピットは正直に答えた。
起き上がって本にしおりを挟むと、こう続ける。

「でも、もう少しでヒントが掴めそうだ。
ハロウィンまでには解決してみせるさ。
…あ、言っとくけど僕、おじさんが居眠りしてる間にちゃんと聞き込みとかしてたからね」

「俺が寝てたの見たのかよ!
それより、この屋敷からは出なかったろうな?」

「うん。ちゃんと分かってるよ、そのことは。
僕が聞き込みしたのはここに住んでる人だけ。
屋敷の外の人にも聞いておきたいとこだけど、それは明日おじさんに任せるから」

「仕方ないな…ちゃんと聞くことメモっといてくれよ。
…あぁそうだ。それよりピット、また依頼だぞ。狼人間の次は犬泥棒だ」

「犬泥棒?」

天使は眉をひそめる。
正直、狼人間に比べちゃ興味が湧かないって様子だ。

だが、そんな気まぐれ天使に何とか事件を解決させるのも、俺の探偵ごっこのうち。
俺はもったいをつけてこう言った。

「ただの泥棒なら警察の仕事。
だがこいつはな、この一ヶ月で立て続けにサウィン中の犬を盗んでいる。
動機は不明。手紙や足跡、指紋すら残さないから警察は手を焼いているってわけだ」

「なるほどね…」

天使の目にちらっと光が灯った。

「おじさん、明日ついでにその事件についても聞き込みしといてよ」

「なっ……ちょっとはお前も手伝えよ!
目立つようなことしないんなら俺が外に連れてってやっても良いんだし」

思わぬ負担を増やされて憤慨する俺を、華麗に本の表紙でシャットアウトしつつ、
天使は再びソファに寝転がる。

「いや、遠慮するよ。
僕は僕で、明日することがあるからね」

夜になった。
俺はピットと共に、2人で3階の角部屋に向かう。
狼人間とやらの姿を拝みに行くのだ。

昼間見たときと比べ、丘の上に建つドクター・モローの研究所はより一層不気味さを増していた。
ざわめく森に囲まれ、宵闇よりも暗い影の中に沈んでいる。

博士が生きていた頃は、きっと研究所の光で夜もあの丘は明るく照らされていたのだろう。
引退後も、助手達と共に研究にいそしむ博士の姿。
だがそれは、あの廃墟と同じくらいセピアがかった過去の話になってしまった。

そして今。明かりはまだついていない。
やつは本当に現れるのだろうか。

数キロ離れた向こうから気づかれる訳もないのだが、俺は息を殺して研究所の廃墟を見つめていた。

そんな俺の横で、ふいに天使がいつもの調子で言った。

「そういえばおじさんにも聞きたいことがあったんだ」

「なんだ?」

俺が小声で聞くと、ピットは怪訝そうな顔をした。

「何を心配してるのさ。
この部屋は明かりも点いてないし、向こうから見えるわけないよ。
それ以前に、声をひそめたってこの距離じゃ意味がない」

「はぁ…お前はムードというものを知らないのか。
…で? 俺に聞くことって何だ」

そう尋ねると、ピットは真剣な顔になった。

「あの研究所の持ち主、モロー博士についてさ。
おじさんは彼の名前を知ってたよね」

「あぁ。分野が近いからな。あの博士はもっぱら感染症の研究をしていた。
だが直接会ったことはない。俺が研究者になる頃には現役を退いてたらしいし。
まぁ論文引用数も多い、立派な博士だったそうだな」

「ここの人たちも彼の名前を知ってたよ。大学外でも名が知られてる、とても有名な先生。
でも、晩年は少しおかしくなってたんだって」

「…そうなのか?」

俺は隣のピットの顔を見上げる。
そいつは初耳だった。

「うん。夏でもコートを着て外をふらついていたり、
網を持ってノラネコを追いかけ回したり…そういう奇行が引退前から目立ってくるようになったんだって。
昔はとても紳士的な人だったそうなんだけど。
愛弟子のローレンスっていう人が面倒を見るようになってからは外に出てくることも無くなったけど、
そのかわり、研究所は一日中明かりを点けっぱなし」

「なるほどなぁ。
…そのローレンスってやつ、下の名前は何だ?」

「ローレンス・タルボット」

ピットはその変わった名前を、メモも見ずにすらすらと答えた。

「おじさん、その人のこと知ってるの?」

「名前だけな。
同じフロアの研究室にいる院生だ。確か博士2年。
それ以外に知ってることはない」

赴任後の挨拶回りで見たあとは、廊下で数回すれ違ったくらい。
そんな程度の顔見知りだ。

「そのローレンスっていう人。
一年前に博士が亡くなってから、あの研究所兼自宅の管理をしてるそうなんだけど、最近は来てないんだって。
雑草もほったらかしで、壁にはひびも入って」

「まぁ弟子ったって、月日が経てばそんなもんなんだろうな…」

と、そこで俺は口を閉じ、目を凝らした。
研究所の一角に、明かりが点いたのだ。
横で、ピットも身を乗り出す。

暗闇の中、黄色く浮かび上がる四角い窓。
やがて、その中に黒い人影が伸び上がった。

いや…人じゃない。
そいつは長い鼻面、ぴんと立った耳を持っている。
体格は人間と同じ。だがその頭はまさに、狼そのものだった。

そいつは背を丸め、ゆっくりと室内を歩いていく。

――ア ォ オ オ オ オ …

冷たい風に乗って、かすかな遠吠えが届いてきた。

獰猛でありながら、同時に物悲しい獣の声。

夜風が頬をかすめ、俺の背筋をさっと冷たいものが走った。
隣の天使も、いつになく厳しい顔つきで狼人間の影を見つめていた。
それでも口調だけは不敵に、こう呟く。

「なるほど…面白いね」

研究所の明かりは点いたときと同じくらい唐突に消え、
丘の上はさっきよりも濃い闇に閉ざされた。

ピットがふいに尋ねてきた。

「ねぇ、おじさん。
狼人間をつくることって、できるの?」

「…いきなり何だ?」

「町ではこう噂されてる。
狼人間は、モロー博士の創った怪物なんだって」

「そんなバカな…」

ピット自身が信じていない様子は、口の片端が笑っていることから見て取れる。
だが俺の方はそう応えつつも、苦笑いが引きつっていた。

こうして研究職をしていればよく分かる。
研究の現場では4年や5年、分野によっちゃ10年先の技術を扱ってるところだってある。
あり得ないと言い切る自信は、俺には無かった。

第3章 探偵、モロー邸に乗り込む

<10月30日>

我らがピット君は、実に気まぐれな天使だ。

極力面倒なことはせず、俺に任せる。
できるだけピットに注目が集まらないようにするためだから、
俺もナナカマド博士と約束した以上しぶしぶ雑用を引き受けてやってる。

推理の要である聞き込みも、いつもほぼ俺がやってる。
証言だけじゃなく、相手のちょっとした仕草や気づいたことまでメモしていくのだ。
ピットが同行してくれるときはその必要はないのだが、そのかわり常識はずれな言動をしないよう見はってなきゃならない。
だから実質、俺の苦労は同じだ。

「マリオさん、来てくださったんですね?」

ハロウィンフェスティバルの準備で忙しいだろうに、サウィンの住人は俺の聞き込みを面倒くさがらずに受けてくれた。
中には、自分から進んで目撃情報を話してくれる人もいる。

「やっぱりあのモロー博士の…あれ・・を調べに?
いや、私も本当のことなのかは…」

「犬か…狼のような頭をした男が、通りを駆けていったんです。
恐ろしくて動けませんでした。
夜でしたし、遠くから見ただけなので未だに自分でも信じられなくて」

住人は一様に、人狼事件について少なからず腫れ物に触るような態度を取った。
"デマだと思いたい。が、本当のことだという予感をぬぐえない様子"
"目撃した者も、半信半疑"
俺はそう書き留めた。

「おれはな…見たんだよ! 嘘じゃぁねぇ。あの狼人間が誰かに襲いかかるところをな!」

そういう調子の証言も結構集まったが、俺の中では疑問符を付け加えておいた。
だって、傷害沙汰になってるならとっくに警察が動いてるだろ?

モロー邸を中心に、まずは人狼事件について朝方から2時間かけて聞き込みをした。
が、特にこれといった目新しい情報は得られなかった。

狼人間は必ず夜に現れる。
体色は灰、黒、茶…と、見た人によってバラバラ。
目撃情報の大半は、一瞬だけ物陰を走る姿を見たというもので、傷害事件は起こしていないと見ていい。
間近で目撃した人も、襲われたという人もいない。
住人が「狼人間の仕業だ」と主張する器物破損などのいくつかの事件も、実際に犯行の瞬間を見た人はいなかった。

なんとまぁ、ずいぶんおとなしい怪物だな。
警察に通報した人もいたが、
「誰も傷つけられていないうちは動くことができない」と言われたそうだ。

むしろ、今警察では犬泥棒の方に注目してるらしい。
まぁ、そうだろう。
狼人間がうろついてるなんて寝言よりは、ずっと現実的な案件だ。
サウィンの住人にとっちゃ狼人間の方が重要なんだがな。

ところが、このご婦人にとっては逆らしい。

「センセ、センセ!
ワタクシのシルバーちゃんを助けてくださいませ!」

ドアホン越しに俺がこちらの名を告げるなり、ドアを勢いよく開けて出てきたご婦人はそう言った。
"肉付きの良い"を通り越し、ふとっちょの部類に入るそのご婦人は、
宝石のブレスレットをじゃらつかせ、ブランド物のハンカチを泣きはらした目に当てている。

「もう3週間も帰っていないんですのよ!
あの子、うちの高級ステーキしか食べられないのに…今頃どうしてるのかしら!
ああ、ワタクシのかわいいシルバーちゃん!」

この手のおばさんの対処には、もう慣れている。
事件に巻き込まれ、動揺している人の心を受け止めるのも探偵の仕事のうちなのだ。

俺はご婦人のふくよかな肩に手を添え、頼れる探偵の声をつくってなだめる。

「お気持ちはよーく分かります。
犬は家族も同然。愛すべき家族をさらった不埒な犬泥棒は、俺が必ずつかまえますから」

そう言ってやると、ご婦人はハンカチを握りしめて目を輝かせる。
そして、ほとんど息もつかず怒濤のように喋り始めた。

「ありがたいことですわセンセ…!
まわりの皆さんはワタクシのシルバーちゃんなんてどうでも良いみたいですのよ。
毎日毎日顔を合わせては、あの何とか言う博士のことばかり!
狼人間なんて、フン! そんな子供だましの作り話、誰が信じるものですか!
丘の上の廃墟にしたって、早いところ取り壊せば良かったのですわ。
あんな薄気味悪い研究所、閑静なサウィンに似合わなくてよ!
…あぁ、それにしても可哀想なシルバーちゃん! 今頃ワタクシが恋しくて泣いているに違いありませんわ!」

気を抜くとすぐ"ワタクシのシルバーちゃん"の話に戻るご婦人をなだめすかし、
ようやくシベリアンハスキーのシルバーが、3週間前の夜に忽然と姿を消したことを確認した。

豪邸を後にし、メモ帳に被害者の住所を書くとどっと疲れが襲ってきた。
実際に被害が出てるだけ犬泥棒の方が聞き込みがきついと予想していたが、ここまでとはな。

「ご苦労さまです」

その声に顔を上げると、2軒先の庭先から若い男がこちらを見ていた。

「やぁどうも」

俺が手を上げて応えると、彼は少しくだけた調子でこう言った。

「すごいでしょ、あそこの奥さん。
シルバーって犬共々、このあたりじゃ何かと評判なんですよ。
あの犬、吠え声がうるさいってんで昔は苦情が来てたんだけど、蛙の面に水。
一向に取り合ってくれなくてね」

そこで声をひそめて、彼は続ける。

「実のところ、僕はあの犬がさらわれてせいせいしましたね。
他の人もそう思っているはずですよ」

被害がシルバーちゃん1頭だったなら、怨恨の線もありえただろう。
だが、こうして人づてに犬を飼っている家庭を回っていくと、初めに俺が予想していたよりも多くの犬がさらわれている。
便乗してってケースも無いわけじゃないが、まず同一犯として…犯人は何が狙いなんだ?

…ま、そいつを考えるのはピットの仕事。
サウィンで犬を飼っている家庭はおおかた巡り終えた。あとはこのメモ帳をピットに渡すだけだ。

最後にちょっと人様の家の塀に背中を預けさせてもらい、俺はメモ帳を確認していった。

「…ん?」

何かがひっかかった。
犬がさらわれた人の住所…妙に固まっていないか?

急いでサウィンの地図を広げ、メモ帳を参照しつつマーカーで点を打っていく。
計21個の点。この1ヶ月でさらわれた犬の頭数。

「やっぱりだ…!」

やがて完成した点描画は、ある一点を中心にほぼ円を描いていた。
それは、モロー博士の研究所。
そして狼人間の目撃時期と、犬泥棒の被害の時期はほぼ同じ。

――僕の行ってる学校では、こう言われているんです。
犬泥棒は、狼人間だって。

リュカ少年の声が、耳によみがえった。

犬泥棒と狼人間。
この2つには間違いなく関連がある。
こいつはまだピットも突き止めてないに違いない。

俺は急いでルイージのマンションに戻った。

「あ、おかえりなさい兄さん」

庭の手入れをしていた弟が顔を上げる。

「おぅただいま。ピットは部屋か?」

「うん。兄さんが出た後、頼まれて何部かの論文を印刷してあげたんだ。きっとそれを読んでるよ。
さすが博士の孫だよね。すごく勉強熱心だ」

「論文…?」

あいつが興味を示すのは小説だけだと思っていたが。
訝しみつつも、俺は屋敷の扉をくぐり2階に上がる。

「おーすピット、聞き込み終わったぞ」

「早かったね。慣れてきたんじゃない?」

ルイージの言ったとおり、ピットは文字がみっしりつまったA4の紙を手に、ソファに座っていた。

「ま、おかげさまでな。
…おっと、メモ帳を渡す前に教えてやることがあるんだ」

「教えること?」

「そうだ。聞いて驚くなよ?」

俺はもったいぶって咳払いすると、こう言った。

「謎の犬泥棒とモロー博士の人狼。この2つの事件は深く関連している!」

ところが、天使は驚きもしなかった。
いつものように落ち着き払って、こう言う。

「そうだよ」

「…なんだ、分かってたのかよ」

すっかり気が抜けてしまった俺は、ため息と共にメモ帳を手渡した。

聞き込みもしないうちにどうやって、と聞こうかと思ったがやめた。
またこいつお得意の勘だろう。
数百年も人間のすることを見ていれば、ちょっとした証拠から事実を引き当てるのは簡単だ。
こいつはいつだったか、そんなことを言っていた。

「ところで、論文なんて持ち込んでどうしたんだ。読めんのか?」

「専門用語だらけでさっぱりなところもあるけど。
でも、実に興味深いことが分かったよ」

今度はピットが秘密めかした調子で言うと、俺の前に論文の1ページを差し出した。

「ウエストリバーウイルスについての報告…。
これのどこが興味深いんだ? 学会じゃ散々叩かれたやつだぞ」

「書いた人の名前を見てみてよ」

「何……モ、モロー博士?」

俺は目を疑った。

「そう。この論文はモロー博士の書いたもの。
有名な博士の書いた論文なのに、これは妙に引用数が少なかった。
それもそのはず。これは博士が引退前に書いた最後の論文なのさ」

「つまり、おかしくなりはじめてた頃のってことか」

ウエストリバー病は、その地域の川に含まれてた有毒物質が原因だと突き止められていた。
そんなところに、この病気はウイルスが原因だと言い出す学者が割り込んできたとは聞いていたが、
まさかそれが、あのモロー博士だったとは。

だが、それとサウィンの2つの事件と、何の関わりがあるっていうんだ?
俺が訝しげな顔をしているのを分かっていながら、ピットは論文を机に戻し、すました顔で続ける。

「博士の他の著作も読んでみたけど、文章の雰囲気も明らかに昔の論文よりおかしい。
支離滅裂で筋が通ってないし、奇妙なくらい頑固になっている」

「…俺がここを離れてたのはたかだか4時間だよな。
その間に、これ全部目を通したってのか?」

机の上には、バラバラに広げられた論文のプリントアウト。
ざっと50枚はあるだろう。

唖然としている俺に、ピットは革ジャンのポケットから何かを取り出して渡した。
手に乗せられたのは、プラスチック製のUSBメモリ。所々砂にまみれている。

「それ、モロー邸に落ちてたんだ」

その言葉の意味するところが俺に伝わるまで、十数秒かかった。

「お……。
…お前、外に出たのかっ?!」

「うん。窓からちょっと失礼してね。
だって、聞き込みの邪魔はしたくなかったし、昼間の方が安全だから。
それに、おじさんはあの研究所の塀、乗り越えられないでしょ」

「…はぁ。お前は全く…」

俺はもはや怒るのを通り越して呆れていた。
ただ思うのは、"誰かに見られやしなかったか"。それだけだ。

「で? これをどうしてほしいんだ」

「それ、この時代の紙みたいなものなんでしょ?
そこに書いてあることをちょっと知りたくてね」

「なるほど? これも事件解決のためには必要ってわけか。
…ところで、これ研究所から盗んだんじゃないだろうな?」

パソコンを立ち上げつつ俺が聞くと、ピットは笑った。

「まさか! 敷地に落ちてるのを拾っただけさ。
土のつき具合、落ちてた場所から言って、これは1週間以内に落とされたもの。
加えて、落とした人は気づいていないか、あるいはあそこで落としたことを知らない。
だから心配しなくて良いよ」

「それなら良いんだけどな。
…ん?」

俺はパソコン画面に顔を近づける。
"このプログラムを起動するには IDとパスワードが必要です"
そう書かれたウィンドウが出てきたのだ。

「おい、だめだ。開けないぞ。
ピット、パスワードか何かが書かれた紙はくすねてないのか」

「パスワード…? 何それ」

「暗号のことだよ。鍵みたいなもんさ。
そいつがないと中身は読めない」

「そうなのか…」

難しい顔をして、ピットはメモ帳に視線を戻した。

「どうする。こいつは諦めるか?」

「…いや」

再びこちらを向いたピットの顔は、小悪魔っぽく笑っていた。
これは、何か良くないことを思いついた顔だ。

「どうやら僕は当たりを引いたみたいだ。
おじさん、そういうのに詳しい先生が大学にいるよね。
彼にそれを預けてきてよ」

「…というと、ハルにこれをハッキングさせろってのか?」

俺の脳裏に、もじゃもじゃ頭の工学部助教授の顔が浮かぶ。
彼は昔、知る人ぞ知るスーパーハッカーだったのだ。

「あの人ならきっとできるよね」

「おいおい、できるとかできないとかじゃなくてなぁ…。
誰の個人情報が入ってるかも分からないんだぞ。
そんなものを無理矢理こじ開けさせるなんて」

俺は渋い顔をする。

「こじ開けるだなんて人聞き悪いなぁ。
そんなに大切な物を落っことしちゃう人が悪いんだよ」

なんだかんだで丸め込まれた俺は30分後、ニンテンドー大学へと車で向かっていた。

やがて木立に囲まれた白亜の殿堂が見えてきたところで、俺はピットがよこしたメモに目をやる。

"エメリッヒさんに開けてもらう"
"スターフォックスの10巻と11巻を持ってくる"
"いたら、ローレンスにモロー邸の不審者について伝えておく"

これじゃまるでお使いだ。
初めと最後のはまだしも、2つ目は何なんだ。
読み終わったから次のを持ってこいってか?

ま、それだけ余裕があるってことは、あいつの中ではだいぶ推測がついてるってことだろう。

それにしても、俺の聞き込みと総合して推理の形をはっきりさせるとは言っていたが、
あいつ、留守番してる間に小説読む気じゃないだろうな?

「あれ、出かけてたんじゃなかったっけ?」

戸口に立っている俺にちょっと目を丸くしつつも、ハルは俺を部屋に招き入れた。

「ちょっと散らかってるけど…」

机や椅子の上と言わず、至る所にミニチュアのロボットや資料が山をなしている部屋の中を、
俺は慎重に進んでいった。

「それで、僕に頼み事ってなんだい?」

部屋の奥からパイプ椅子を持ってきたハルに聞かれ、俺は例のUSBを差し出した。

「この中を見てほしいんだ。プロテクトが掛かってて、俺じゃ見れなかった」

「…というと、あぁ、なるほど。
それが君の推理に必要なんだね?」

ハルはすぐに理解した。
見かけによらず、彼はなかなか頭の切れる男なのだ。

「そういうことさ」

「よし、任せてよ」

俺からUSBメモリを受け取ると、ハルは傍らの机の一角を軽く叩いた。
途端に、試作品の一部だと思っていた場所に光が灯る。そんなところにパソコンが埋もれていたのだ。

まずは小手調べ、と言った具合でハルの両手がキーボードの上をすばやく動く。

「ふーむ…こいつは思ってたより手強いな。
マリオ、また後で来てもらっても良いかな? 破れたら僕から連絡する」

「そんなにきついプロテクトが掛かってるのか…。
分かった。それじゃあよろしくな」

パソコンの画面に顔をくっつかんばかりにし、猛烈な速さでキーボードを叩きはじめたハルのことはそっとしておき、
俺は部屋を後にした。

続いて、モロー邸の管理を任されている院生ローレンス・タルボットに会うため、総合研究棟の研究室を訪ねた。
だが、彼は留守にしていた。

「あら教授! あの人ならたぶん、演劇部の部室に行っていると思いますよ」

白衣を着た女性が出てきて、そう言った。

「演劇部?」

「ええ。彼はとても演劇が好きなの。OBになった今でも、時々部室に行くくらいで。
研究者か、俳優かで迷ったこともあるって言ってましたわ」

渡り廊下をハシゴして、クラブ会館に向かう。
全く朝と言い午後と言い、今日は歩きっぱなしの一日だな。

クラブ会館は、大学の敷地のはずれに建つ5階建ての建物だ。
軽音楽から吹奏楽までの練習部屋、体育系サークルの物置、その他文化系サークルのだべり場などが寄せ集まっている。
学生によっちゃ学部よりこっちの方が学生生活のメインかもしれない。

3時を回ったので、早めに講義が終わった学生がちらほらいる。
白衣を着た俺にちょっと珍しそうな視線を向けるのもいた。

息切れしてきたのは階段のせいにして、俺は"ニンテンドー大 演劇部"と書かれたドアをノックし、開けた。
途端に、朗々たる男の声が耳に飛び込んでくる。

我々は罠にかけられたのだ。やつらの策略によって、貶められたのだ…!

どうやら稽古中だったらしい。
室内にはすでに5人ほどの男女がいて、台本の読み合わせをしているようだった。
俺に気がつき、彼らは練習を止めて振り返る。

「失礼。ここに院生のタルボットは来てないか?」

そう尋ねるとすぐに、一番背の高い男がこちらにやってきた。さっき台詞を言っていた学生だ。
栗色の髪に整った顔。
なるほど、こうして普段着を着て台本を持たせたら「俳優です」と言っても十分通るな。

「僕がタルボットです。
学部のことで何かありましたか?」

俺が医学部の教授だということを覚えていたらしい。
彼は先ほどの堂々たる様子とは打って変わって、素の顔、大人しそうな顔を少し傾げる。

「いや、学部のことじゃないんだ。
君は確か、モロー博士のお宅を任されていたね?」

「ええ。博士には親戚もいらっしゃいませんので、遺言で僕が」

「実はその研究所のことでちょっと伝えておくことがあってね。
…最近、あの研究所付近で怪しい人影が見かけられてるんだ。
君もあそこに立ち寄るときは十分注意してくれ」

俺がそう言うと、ローレンスははっと顔をこわばらせた。

「…そうですか……分かりました。わざわざすいません」

きっちりと礼をした彼の横から、もう1人の部員が出てきた。

「あの、マリオ教授ですよね?
これ、部長の伝言です」

「ん? ありがとう」

折りたたまれた紙には、彼女が書いたらしい小道具盗難事件の詳細が記されていた。
自分がいないときに俺が来た場合を考えて書いたらしい。

盗まれた物品の種類や、それが最後に見かけられた日付。ずいぶん詳しく書かれてるな。
とりあえず、俺はざっとそれに目を通し、もっともらしく頷くとポケットにしまった。
推理するのはピットの仕事だからな。

さて…最後は『スタフォ』の2巻か。
面倒だったが、俺もどのみち自分の部屋に用があったし、持ってきてやることにした。

再び総合研究棟に戻り、2階へ向かう。

「ん…?」

俺の部屋に明かりがついていた。
まぁ天使が来てからはいつものことになっている。
あいつは誰彼構わず、この部屋を学生に貸し出しちまうからな。

でも、俺達が留守にしてる時まで開放するこたぁねぇだろうが。

内心毒づきつつ、俺はドアを開けた。

「あ、博士ドクター! お邪魔してます」

真っ先に顔を上げた青髪の青年を含め、部屋には3人の学生がいた。
遅れて赤毛の学生がぺこっと頭を下げ、再び手元のレポート用紙に向かう。
紺色の髪の学生も、相変わらず無愛想な顔をして少し頭を下げた。

マルス、ロイ、アイク。
彼らは法学部の学生であり、俺の部屋の常連だ。

「まーたお前らか!」

呆れて声を張り上げる俺に、トランプを手に持ったマルスが「静かにして下さいよ」と言う。

「ロイは今、単位が掛かってるんです。
集中させてあげてください」

「なるほど。後輩思いは結構だが、お前らは横でトランプか」

資料を積み上げレポート作成に追われる後輩の横で、ババ抜きしてるらしい先輩2人。
何とも日常的な構図だ。

「僕らはアドバイスするためにここにいるんですよ」

そう言ったマルスの手から、アイクが1枚のトランプを取ってこう言った。

「お前の番だぞ」

レポートを書かされる苦しみは俺にもよく分かる。
今日の所はロイに免じて3人組をほっとくことにし、俺は小説2冊を本棚から抜き出した。
問題作成に必要な資料も取り出す。
…この調子じゃ今月中に終わらなさそうな気配もしてるが。

「また僕の勝ちだね!」

得意げな声に振り向くと、マルスが2枚の手札を机に捨てるところだった。
アイクはジョーカーを持って悔しそうな顔をしている。

学生ってのは全く楽な身分だよな。
職について初めて、学生時代がいかにかけがえのないものだったかを思い知らされた。
同級生に言ったら、「お前はあれだけ遊んでまだ足りないってのか」と呆れられるだろう。

まぁ俺はお世辞にも優等生とは言えない学生だったが、
これだけ目と鼻の先で黄金時代を見せられちゃ、うらやむなという方が無理だ。

そんな俺の視線に気づいたらしい。
アイクがこう声を掛けてきた。

「教授もやるか? 2人だとどうも読まれやすい」

「2人だからってことはないよ。君が分かりやすいだけさ。
でも、人数が多い方が面白いな。忙しくなかったら博士もどうぞ」

俺はその言葉に甘えることにした。
なに、1戦くらいなら問題ないだろう。

「ハハハ、残念だったな。俺にはお見通しなんだ」

「くそ…このトランプ、細工でもしてあるんじゃないのか」

「まさか! 僕がそんな卑怯なことするわけないじゃないか」

と、わいわいトランプをしている俺達に、

「良いですねー…先輩達は楽で」

頬杖をついたロイが、ため息混じりに言った。
そんな後輩を、マルスがなぐさめる。

「2年後期と3年前期は法学部最大の関門って言われてるからね。
でも、それが済めば自由さ!」

「うまく進級できたら…の話ですよね」

「大丈夫だよ。あの先生はそんなに専門的な知識は要求してこない」

そう請け合うマルスに、アイクが向こうから口を挟んだ。

「そのかわり文法とか誤字にはやたらと厳しいけどな。
…教授、あんたの負けだ」

ふいに宣言されて、俺は手札に目を戻す。
会話に気をそらされていた隙に、俺の手札はジョーカーだけになっていた。

「ぬぅー!」

俺はトランプの山に、ニヤニヤ笑いの道化師を叩きつける。
念入りにシャッフルしたつもりだったんだけどなぁ。

「はぁ…まいった」

そう呟いて顔を上げると、壁掛けの時計が目に入った。
150°を示す折れ線。
その意味に気がつき、ようやく現実に引き戻された。

もう5時を回っている。

「…っと、こうしちゃいられなかった!」

俺は急いで立ち上がり、本と資料を抱えた。

あいつには1時間くらいで戻ると言っていた。
それが2時間もオーバーとなると、またあの人を小馬鹿にしたような目で「一体どこで寄り道してたの?」とか言われるに違いない。

30分後。
意外にも、そんな俺の予想は外れた。

ピットは「ずいぶん遅かったね」と片眉を上げるだけだった。

「ちょっと渋滞があってな」

そう言って誤魔化しつつ、俺は演劇部でもらったメモを渡す。
ピットはそれにざっと目を通し…まぁ俺にはざっと目を通したようにしか見えないんだが、
ともかく、興味深いことが書いてあったらしい。

「…やっぱり、なるほどね」

頷いて、メモを折りたたむとポケットにしまう。
何がなるほどなんだと尋ねようとしたが、間髪おかず先を取られてしまった。

「そういえば、ローレンスには会えた?」

「あぁ。一応伝えてきたぞ。
恩師の家に不審者がいると知って、ちょっとショックを受けてたみたいだな。
まぁこのところ放っといてた罪悪感もあるかも―」

「伝えてくれたんだね」

ピットは、途中で俺の言葉を遮った。

「よし、じゃあすぐにモロー邸に向かおう」

きっぱりと言ったピット。
俺はしばらくの間ぽかんとしていたが、はっと気がつき慌てて尋ねる。

「モロー邸に…?
…じゃあ何か、もう事件の謎は解けたのか?!」

「もちろんさ。
言ったでしょ? ハロウィン前にはきっちり終わらせるって。
あとは僕の推理が正しいかどうか、確かめるだけ」

「何も俺達が行かなくったって…」

俺は渋い顔をした。
"自分の目で真実を確かめる"というこいつの変な古典趣味のために、今まで俺はどれだけ危険な目に遭ってきたか。

今回はよりによって狼人間。
絶対に何か起きる。
いいや、何か起こる要素しかないじゃないか!

「外出? 外で食べてくるのかい?」

午後6時。
ホールで俺達と鉢合わせたルイージはそう尋ねた。

「なぁ、俺がもし1時間経っても戻らなかったら…」

俺は真剣な声で言いかけた。
だが、横からピットの邪魔が入る。

「ちょっと用事があって。でも、すぐに戻りますから」

「そう? まぁ気をつけてね」

半ばピットに引きずられるようにして屋敷を出て行く俺を、弟は不思議そうな顔で見送った。

「何も命の危機ってわけじゃないのに。おじさんは大げさだなぁ」

助手席のシートを倒して寝っ転がり、ピットは至極のんきなことを言っていた。

「俺達俗世の人間にとっちゃな、狼人間は十分命の危機なんだ!」

俺はサウィンの住宅街を運転しつつ、ふくれっ面をする。

翌日の祭りに備え、夕闇の中サウィンの住民は飾り付けを始めていた。
カボチャを摸した電飾は、どこの家庭にも揃っている。
中には本格的に本物のカボチャでランタンを作っている家もあった。

コウモリやカボチャの切り紙モビール、オレンジ色のきらびやかなモール、黒猫や魔女のステンドグラス。
オレンジに黒、紫…。どの通りも、怪しげでそれでいて心が浮き立つハロウィンの色に染まっている。

だが、にやにや笑うジャック・オ・ランタンの横で、町の人はどこか不安そうに顔を曇らせている。
みんな狼人間のことが心配なんだろうな。

でも君達はまだましだ。
何たって俺がこれから会いに行くのはその―

「"狼人間"はそんなに恐くないよ。ちょっと用心してたほうが良いけどね」

俺の心を読んだかのように、ピットが言った。

「用心って…結局危ないんじゃないか!
ったく俺はまだ試験問題も終わらせてないってのに…。
…そういやピット、謎は解けたんだろ? もったいぶらずに教えろよ」

せかす俺だったが、こう軽くあしらわれてしまった。

「まぁ焦らないで。じきに分かるから」

ついに俺は、モロー邸の建つ丘、そのふもとに着いてしまった。

あたりはすっかり暗くなり、こっそり忍び込むにはちょうど良い。
不気味さも8割増しだがな。

お気に入りの白衣は車に残し、焦げ茶色のコートをはおる。
ピットは革ジャンを首の辺りまできっちりと閉め、白シャツが見えないようにしていた。
その手には、弓なりに反った短剣が2本。
2つ合わせれば弓にもなる不可思議な得物だ。

この短剣は、彼が地上に落ちてきたとき身につけていた武器。
えらく古風なデザインの白服と共に、彼が只者じゃないことを示す物だ。

普段は大切にしまってあるそれを持ってきたってことは、
やっぱりモロー邸で待ち受けてるのは並大抵の危険じゃぁないってことだよなぁ…。

「警察なんか呼んだら、相手は用心して姿をくらませてしまうよ。僕らが行った方が早い」

天使はそう宣ったが、何も俺まで巻き込むこたぁないだろうに。
…まぁ、1人で外に出るなって言ったのは確かに俺だけどさ。

「さ、行くよ。おじさん」

そう言ってさっさと丘を登り始めた天使の後を、結局俺はしぶしぶついていくのだった。

厚手のコートを着ていたが、さすがに10月も末になると夜は冷え込む。
研究所の裏手から回り、中腰になって林の中を進む俺の手はかじかみ、鼻が冷たくなってきていた。

正面に見えるモロー邸に光はない。
住宅地の明かりからもだいぶ遠ざかり、あたりはいよいよ真っ暗になってきていた。
だが、まだ懐中電灯を点けるわけにはいかない。
モロー邸に潜む何者かに勘づかれるかもしれないからだ。

犬泥棒か、はたまた怪物か…。

俺はちょっと神経質に、鼻で笑う。
冷静になれよ。いくら科学が進歩したとはいえ、たった1人の科学者に新種の生物が創れるわけがないじゃないか。
ましてやほ乳類を使ったバイオテクノロジーなんて、あの博士にとっちゃ専門外だ。

「そう、そのとおり。
モロー博士の専門は感染症とウイルスだ」

ピットが声をひそめて答えた。

「そうだよな…。
…って、おい。何で俺の考えてることが分かった?」

「簡単だよ。初めおじさんは夜空の方に目をやってた。そして暗い林に。
続いて研究所の方を心配そうに見てたけど、やがて笑った。視線はそのまま、研究所に向けてね。
それを見てれば、どんなことを考えてどういう結論に至ったのかくらい分かるさ。
…それはそうと、まだおじさんは事件の真相が分からないようだね」

「当たり前だろ?
犬泥棒のことも、狼人間のこともさっぱりだ。
せいぜいがどっちも闇夜に乗じて行動してるとか、モロー邸に関わってるとか、そのくらいだな」

「その通り。その2つの事件にはとても深い関係がある」

ピットはしたり顔で頷くと、こう語り始めた。

「ハロウィン。国によって少しずつ意味は違うけど、大きく言って先立った人たちの霊を祀るための祭りだ」

俺はピットがなぜ、いきなりハロウィンについて語り出したのか、さっぱり分からなかった。
だが、余計な口は挟まない。

天使の横顔はいつにもまして生き生きとしていた。
複雑怪奇な人間の心理、その一片をもう少しで掴める。
そんな静かで一途な喜びに満ちた顔だ。

その顔からして、この話もいずれ自分の推理へと繋がるのに違いない。

「犯人が計画の決行に10月31日を選んだのは、もしかしたら偶然かもしれない。
でも、結果的にはおあつらえ向きになった。
彼は明日、亡き博士の霊を呼び戻そうとしてるんだからね」

「亡き博士の霊…?
おいおい、狼人間の次は降霊術か」

「例えさ。本当に霊が来るわけじゃない。
そもそも霊なんていないんだから」

ピットは、天使が言ってはいけない台詞をさらりと言ってのけた。

「ところで、推理するときに必要なことは何だか、おじさん知ってる?」

「え? …そうだな、どんな小さな事も見逃さない目とかか?」

急に聞かれたにしては自分でも良い答えが出たと思ったが、天使は首を横に振る。

「それもあるけど、もっと大切なことは相手の身になって考えることだよ。
おじさんはどうする? もし自分がモロー博士だったら」

今度こそは当たりを引こうと、俺はしばらく考え込む。

モロー博士には、引退前に固執していた仮説があった。
ウエストリバー病は、ウイルスによって起こるという学説。
俺の目からしても、なぜあれだけの人がそんな考えに取り憑かれるのか、さっぱり分からない。

が、そこで思考を終わらせてはいけない。
俺だったらどうする? もし自分の信じている考えを否定されたら。

「……何とかして、証明するだろうな。自分の正しさを」

「そう、その通り。おじさんも中々やるね」

「バカにすんなよ? これでもお前の探偵ごっこに半年はつき合ってやってんだからな」

そう言って口を尖らせたが、天使は涼しい顔して肩をすくめるだけだった。

それにしても、"亡き博士の霊を呼び戻す"とはどういうことだ?
博士が自分の正しさを証明することと、狼人間と犬泥棒。
天使はそれらに関係があると言いたいようだが…。

ピットの話を聞いても、俺の頭の中ではかえって疑問が増すばかりだった。
だから恥を忍んで、思い切って尋ねようとした。

「なぁ」

「…しっ」

俺の前に手が差し出された。
見上げると、ピットは人差し指を口の前に示している。
そして視線を遠くに持って行くと…そこに、モロー邸の塀がそびえ立っていた。

灰色の塀はこちら側、林に面した裏手にまでぐるりと続いており、どこにも切れ目はない。

ピットは数分間、そのままの姿勢で向こうの気配を探っていたが、やがてこう言う。

「大丈夫みたいだ。彼は室内にいる」

そして、木立を盾にしつつ研究所に近づいていった。
俺もその後を、足音を忍ばせて追う。

「ずいぶん用心深いこった…」

俺は塀を見上げた。
さすがに監視カメラは無かったが、塀の高さは2メートル強はあるだろう。
光沢のあるコンクリート製で、さわるとひやりと冷たい。

「この壁、研究所よりも新しいね。博士がいかに他人を信用しなくなってしまったかが分かるよ」

「なるほどな。で、どうやって登るんだ。昼間はどうやって忍び込んだんだ?」

ピットが言っていたとおり、俺にはこの塀は乗り越えられそうもない。
ここで待ってるから行ってこいと言おうか。
そんな考えが頭をもたげた。

「まぁ見てて」

そう言うと、ピットは林の中まで後退した。
双剣を腰に収め、精神を集中させる…と、勢いよく駆けだした。

一気に塀との距離をつめ、そして跳ぶ。

まっすぐに伸ばした右手が、つるつるした塀の縁を掴んだ。
同時に側面に靴のゴム底をしっかりと当て、音を殺して塀に取り付く。

「わーぉ」

これにはさすがの俺も目を丸くした。
学生の頃の俺なら同じくらい跳べたかもしれないが、それを考えてもかなりの運動神経だ。

「ほら、おじさんも来て」

塀を登り切り、その向こうから腕を差し伸べてピットが言った。

「結局俺も行くのかよ」

精一杯、不服そうな顔をしてみせたものの、悲しいかな、無慈悲な天使には通用しなかった。

「当たり前でしょ?」

重いとか文句を言われつつもピットに引き上げられて塀を登った俺は、
数分後、研究所の敷地内にいた。

白壁の2階建て。四角四面なガラス窓。
しかし、どこもかしこもカーテンが引かれ、明かりもない。
マンションの住人がピットに証言していた通り、建物はあちこちひび割れ、茶色く汚れていた。
こうして月の明かりだけで見ると一層寂れて見える。

所々枯れた生け垣がある他は、アスファルトに埋め立てられた敷地。
"自宅兼研究所"だとは聞いていたが、俺ならこんな殺風景なところに暮らしたくはないな。

ふとピットの方に視線を戻すと、彼は研究所の裏口に立ち、その周辺で何かを探していた。
まもなく、

「あった」

と、玄関マットの下から何か小さな金属を取り上げる。

「裏の裏を読まれたよ。
彼のことだから凝ったところに隠してるか、最悪替えを作ってないんじゃないかと思ったんだけど、
意外とありがちだったね。逆にそれだからこそ盲点を突けるのかな」

1人で感心しつつ、ピットは何のためらいもなくスペアキーで裏口を開けた。

「なぁ、さっきからそう言うけど、彼って誰だ? 犯人のことなのか?」

「そうだよ。
さ、ここからは彼の領域だ。おじさん、はぐれないでよ」

「はいはい」

俺は不承不承、ピットの後について研究所の暗い廊下に足を踏み入れた。

しんと静まりかえった廊下。
窓という窓は全てカーテンに閉ざされているため、俺が持つ懐中電灯の明かりの他は一切光源がない。
ひんやりと冷たい空気が淀み、わだかまるそこここの闇からは今にも何か出てきそうだ。

「おいピット、もう少し慎重に歩けよ」

まるで我が家を行くような足どりで歩いていくピットに、俺はたまらず声を掛ける。

「大丈夫だよ」

振り返ってピットは言った。

「研究所の外にいなかったということは、彼はどこかでじっと待ち伏せしている。
侵入者を捕らえたいなら、そうして待ちかまえるのが一番手っ取り早いからね。
彼はきっと、自分が守っている拠点にいるよ」

「でも俺達はそこに向かっているわけだろ?」

「まぁね。でもまだ大丈夫さ」

そしてピットは廊下の奥を指差した。
俺は口を閉じ、その方角を見る。

真っ暗で何も見えない。
しかし、何かが聞こえてきた。

――クゥゥン…

犬の鳴き声。それも、1頭や2頭どころではない。
犬種も様々なたくさんの犬がいる。
彼らの鳴き声が俺には、力無くため息をつき、悲しくて泣いているように聞こえた。

「犬泥棒か…!」

俺が呟くと、ピットは頷いた。

「そう。そして、狼人間でもある」

俺達は鳴き声をたどって、暗闇の中を歩いていった。
途中で行き止まりに突き当たってしまったが、ピットが難なく隠し通路を開く。
消防装置に見せかけたスイッチがあったのだ。

この頃にはもう、俺は恐いのを通り越して妙に冷静な気持ちになっていた。
人間、あまりに緊張が続くと感覚がマヒしちまうもんなんだ。
だから地下室への入り口が現れたときも、俺はそれほど驚かなかった。

隠されていた下り階段を、前後一列になって俺達は進む。
前がピット、後ろが俺だ。

下るにつれて、犬の鳴き声が大きくなっていく。

「おじさん、電気つけるよ」

ピットが言った。
ついに地下室に着いたのだ。

彼は手だけを室内の闇に差し入れ、スイッチを探し当てる。
まもなく、乾いた音がして前方に光があふれた。

途端に、目の前が白く弾ける。
次第に目が慣れてくると、真っ白な無人研究室が視界に浮かび上がってきた。
地下に隠されてることからして個人用だったと思うが、しかしモロー博士1人が使うにしては妙に広い。

しかも、置かれている顕微鏡やシャーレ、ビーカーには埃ひとつついていなかった。
半年放っておかれた部屋だとは思えない。どころか、つい最近まで誰かが使っていたような空気さえ漂っている。

「一体…」

言いかけて、俺は口を閉じる。
コートのポケットに入れていた携帯電話に、着信があったのだ。

液晶には"ハル・エメリッヒ"の表示があった。
メールを使わなかったってことは、つまりそれだけ緊急の連絡ってことか…?

研究室の探索はピットに任せて、俺は通話のボタンを押した。

『マリオかい? あぁ、間に合って良かった…!』

いつになく緊迫した声が耳に飛び込んでくる。

「何があったんだ」

『ついさっき、君に任されたUSBのプロテクトが解けたんだ。
中にあったのは、ウエストリバー病の研究計画。それも、違法な実験を伴っている』

「違法な…?」

事態が飲み込めていない俺に、ハルは次々とまくし立てた。

『そう。USBにはこんなテキストデータも残っていた。
"これ以上軍に、無辜の人命を蹂躙させてはならない"
"師の無念と屈辱を晴らすため、私は全てを捧げる"と…!
最初の実験は10月31日、明日に予定されている。手遅れにならないうちに、彼を…彼を止めてくれ!』

「彼…?
彼って一体誰のことなんだ?!」

しかし、俺はハルの答えを聞くことはできなかった。

突然、背後で耳を聾する咆吼が上がった。

振り向いた俺の視界を占めたのは、黒鉄色の毛皮に包まれた獣人。
尖った耳、ぱくりと裂けた赤い口、そこからのぞく鋭い牙。
狼とも人ともつかないそいつは、黄色く濁った目を俺にひたと据え、右の手のかぎ爪を閃かせて迫ってくる。

対し、俺は全く動くことができなかった。
叫ぶことも、逃げることもできず、呆然と立ち尽くしていた。

――嘘だろ?

――まさか本当に…

――俺は、死ぬのか?

頭の中、思考ばかりがもの凄い速さで空回りする。

――試験問題の代行を誰かに頼まないとな…

半ば呆けたような心持ちでそう思った。

その時。

「おじさん、危ない!」

鋭い声と共に、黒い革ジャンが宙を飛んできた。
Lサイズの服は見事に獣人の顔に当たり、絡みついてやつの視界を奪った。

間髪おかず、純白の翼をあらわにした白シャツの天使が向かっていく。

初めの一薙ぎで甲高い金属音が立ち、狼人間の爪を弾き飛ばす…いや、爪じゃなかった。
床に突きささったそれは、刃渡り10センチの鋭利なナイフだった。

鈍い音がして顔を上げると、
ピットが剣の柄で思い切り、狼人間のうなじに打撃を加えた後だった。
身長190もあろうかという獣の全身から力が抜け、そいつは膝から崩れ落ちる。

頭が床と派手にぶつかる音がして、俺は顔をしかめた。
骨折まで行かなくとも、あの勢いじゃぁ目が覚めた後しばらく痛むだろう。

「だめじゃないか。ちゃんと"トリック オア トリートお菓子をくれなきゃイタズラするぞ"って言わなきゃ。
挨拶も抜きにいきなりいたずらトリックだなんて、礼儀がなってないよ」

気絶してしまったそいつの傍らにしゃがみ、ピットはそう言って革ジャンをはがす。
続いて狼人間の顔に手をやると、その鼻面を上に引き上げた。

ぺろり、ときれいに毛皮がはがれ、その下から現れたのは―

「ローレンス…?」

茶髪の院生。彼そのものであった。

戸惑う俺をよそに、ピットは次々と狼人間の化けの皮をはぎ、俺に手渡していく。
落ち着いて蛍光灯の下で見ると、ローレンスはずいぶんあり合わせの物で変装していたことが分かった。
あれは夜の闇に乗じて動くからこそ効果があったのだ。

「狼のマスク、毛皮のローブ、革手袋、黒の上下、ブラシ。
これで演劇部から盗まれた物は全て揃った」

「え…。
…演劇部の盗難事件もローレンスがやったのか?」

「そうに決まってるじゃないか。
ローレンスが演劇部のOBだって分かってたのに気づかないなんて、おじさんは本当に鈍いね」

と鼻で笑われ、俺はむっとして言い返した。

「あの時気づけって言う方が無理だ。
部長のメモだって俺は軽く見ただけだったし」

「部員に信頼されてて、部室に入ることもでき、なおかつこれらの小道具を必要としていた人。それは彼しかいない」

「じゃあ鈍いついでに教えてもらうが、なぜローレンスは狼人間に化ける必要があったんだ?」

「もちろん、この研究所に人を寄せ付けないためさ」

薬品と実験器具の並んだ棚の間を、散歩でもするような気楽さで歩き回りつつ、
天使はこう語り始めた。

「科学が進歩して、人間は自分たちが少しは利口になった気でいる。
でも心の深いところは今でも同じさ。
常識外れな事ばかり描かれているのに、ホラー映画が人気を失わないのはなぜか。
人間は少なからず信じているんだ。怪物モンスターの実在を」

"私だって信じちゃいませんが"
"いえ、デマだと思うんですがね…"
そう言いつつも、不安そうな様子を隠そうともしない住人達の姿が、俺の頭をよぎっていく。

「ただ、今の人間達は怪物の非科学的な点にも気づいている。
"怪物なんかいるわけがない。大人にもなってそんなことで騒いだら、おかしくなったと思われる"。
理性と感情。その2つが拮抗して膠着状態を作り出す。つまり、様子見だよ。
自分の身の回りに危険が及ばない限り、下手に騒ぐことはよそうってね。
ローレンスは人に危害を加えず、なおかつ定期的に狼人間の姿をちらつかせることで、その状況を巧みに継続させていたのさ」

「なるほどな。で、ローレンスは何で狼人間を選んだんだ?」

「いろんな怪物の中でも、変装しやすくしかもある程度は現実味のあるラインを選んだ、とも考えられる。
でも僕は、偶然のたまものだと思うね」

ピットがそう言った時。

「アォオォン!」

研究室に、大音量の遠吠えが響いた。

しかし、ローレンスはまだ気絶している。
じゃあこの声は…?

「向こうからだ」

そう言ってピットが駆けだした。
俺も慌ててその後を追う。

ドアを隔てた別室。
サウィン中から盗まれた21匹の犬は、みんなこの部屋でケージに閉じこめられていた。
チワワにスピッツ、ドーベルマンからラブラドールまで。
まるでペットショップのような有様だ。

幸いどの犬にも虐待されたり衰弱した様子はない。
シベリアンハスキーのシルバーも、ご婦人の心配などどこ吹く風といった様子で、
俺達に向かって、張り切って吠え始めた。

「こいつの声だったのか!」

俺は耳を塞ぐ。
これじゃあご近所から苦情が来るのも無理はないな。

「サウィンの人は、モロー博士について"生物の研究をしている、とにかく立派な先生"ってくらいしか認識してなかった。
そこに来て、この犬の遠吠えと研究所の怪しい人影。
1週間も続けば"モロー博士の創り出した人狼"の噂が広まるのには十分だ」

「で、ローレンスはそれを利用させてもらったってわけか」

顔をしかめつつ、俺は頷いた。

「じゃあもうひとつ聞こうか。ローレンスはなんで、犬をさらったんだ?」

「きっと彼の計画に欠かせなかったんだよ。
師匠の汚名を挽回するための実験に」

「ウエストリバー病…」

モロー博士はあの病気がウイルスによるものだと主張していた。
しかし、当時既に公害病だということで決着が付きかけていたのに、ローレンスは老いた博士の妄想の方を信じたのか?

「ローレンスは、モロー博士のことを心の底から尊敬していた。
引退後の面倒も、彼亡き後の研究所の管理も、みんな一手に引き受けるほどだからね。
…おじさんも、確かあの論文を読んだよね?
博士が頑なにウイルス説を主張し、公害説を批判していた理由。覚えてるかな」

「確か…陰謀だとか何だとか…。
…そうだ、あの地域にあった研究所から、生物兵器であるウイルスが漏れた。
研究所の持ち主である軍が、それを隠そうとしている。…確かそんなことを書いてたっけな」

「『私は貶められたのだ。このままでは更に多くの人命が失われてしまう』。
論争に破れ、やつれ果てた師匠から毎日そんなことを聞かされていたローレンス。
初めは信じていなかったかもしれない。でも敬愛する師匠の憔悴しきった様子に、結局論理より情が勝ってしまった。
彼はいつしか、その学説を心の底から信じるようになってしまったのさ」

"これ以上軍に、無辜の人命を蹂躙させてはならない"
"師の無念と屈辱を晴らすため、私は全てを捧げる"
彼のUSBに残されていた、やけに時代がかった言葉が耳によみがえる。

「だが、論文じゃウイルスを発見できていなかったぞ。
あの地区のあらゆるサンプルを取ってきてネズミで実験してるが、ありきたりな細菌しか取れていない」

「そう。でも博士曰わく、『ネズミだったからだめだった』。
論文の最後にはこうあったよ。
"ネズミより高等なほ乳類で再び実験する必要がある。
なぜならば、このウイルスは家畜からヒトまでのほ乳類を標的とした生物兵器であるからだ"。
…でもさ、高等って何だろうね」

ピットはそう言って肩をすくめ、こう続けた。

「ま、それにしても彼がうまく罠にはまってくれて良かったよ」

罠…?

「……まっ、まさか俺をエサにローレンスをおびき寄せたってことか?!」

目を丸くする俺に、ピットは涼しげな顔で頷いた。

「そういうこと。
ローレンスは典型的な役者だった。
博士の敵を討つ。そんな役柄に没頭してしまった彼は、犬を盗み怪物に化けてまで宿願を叶えようとしていた。
きっと彼は、ここに至るまで様々なケースを想定し、完璧な成功を収めるために計画を練り直してきたはずだ。
だから、ちまたで噂の"白衣の名探偵"が計画を嗅ぎつけた…とにおわせでもしない限り、彼は出てこないと思ったんだよ。
まぁでも、ナイフを持ち出してきたのは予想外だったけどね」

その言葉を、俺は唖然として聞いていた。

そりゃあ上等な罠だな。
おかげで俺は、危うく腹に刺し傷をこしらえるところだったんだぞ!

他にも色々と言ってやりたいことはあったが、あいにく俺の口は1つ。
どうせ図太いこいつには効きもしないが、俺はこう言ってやった。

「前々から思ってたけどな…。
お前は、絶対に天使じゃない」

第4章 探偵、少年に感謝される

<10月31日>

あの後、俺は念のためローレンスの手足をしばって警察を呼び、後処理を任せた。
捕まっていた21頭の犬も、今朝無事に家族のもとに送り届けられたそうだ。

ピットは、祭りが始まる夜まで『スターフォックス』に没頭するつもりらしい。
で、俺は刑事さん相手に、推理のご披露ってわけだ。

「ローレンス・タルボットは、モロー博士は自分から引退したのではなく、策略によって学会を追放されたのだと思いこんでいました。
学生時代から博士の研究室に助手として通い、彼のことを尊敬していたローレンス。
この研究所に来たのも、博士の面倒を見るためではなく、博士から研究助手を頼まれたためです」

何か自分の手柄みたいに喋っているけど、
これ全部、実はハルがハッキングしたUSBの中に書いてあったことだ。
後はピットの推理でそこまでの経緯をカバーし、まとめ上げるだけ。

言い漏らしが無いよう、俺は今朝走り書きしたメモにこっそりと目をやりつつ、事件の全容を説明していく。
そんな俺の台詞を、至極真面目にメモしている刑事達。
やがてその中の1人が挙手した。

「助手というと、このウエストリバー病の研究の、ですか?」 

「そうです。
博士も、そしてローレンスも、ウエストリバーウイルスを発見するためにはネズミよりも高等なほ乳類が必要だと考えていました。
それも培養細胞なんかじゃなく、1つの完成されたシステムとしての生き物を。
しかし、ある程度高等な生物を丸々1頭となると、倫理的に実験許可が下りにくくなっている。
博士から悲願を託されたローレンスには、悠長に待っている余裕など無かった。
だから、盗むことにしたのです。研究所周辺で飼われている高等な動物、犬を」

その言葉に刑事達は、犬が捕まっていたケージを見やる。
彼らの中には、犬を飼ってたことがある人もいるだろう。
俺もペットを飼った経験はあるから、今回犬をさらわれた人の気持ちはよく分かった。

でも同時に、今の科学がどうしても実験動物を必要としているのも理解している。
必要最小限、なるべく苦痛を与えず。
何重もの原則・ガイドライン・法律に縛られてはいるが、それでも生き物の命を奪うことに変わりはない。

だが今回、一番問題とされることは。
無許可で、しかもペットとされている動物を実験に使おうとしたことなのだ。

俺は、実験台の試験管立てに目をやる。
鑑識班によって封をされたその試験管には全て、透明な液体が入っていた。
博士がウエストリバー地区でサンプリングした、"ウイルスが入っているはずの"資料だ。

無色透明の水。
もしウイルスが入っているとしても、肉眼じゃ決して分からない。

そこまで考えていた俺の頭に、ふと妙な考えが浮かんだ。

そうだ。誰にも分からないのだ。
ある物が存在しないと証明することは、意外に難しい。
俺はウエストリバー病の学会には関わりが無かったから分からないが、
もし研究者連中が買収でもされていて、本当にモロー博士が罠にはめられたのだとしたら…?

…考えすぎか。
ともかく、1人の若者が博士のために道を誤り、やってはならないことをした。それは事実だ。
だが、まだ若いのにな。

俺は、近くにいた刑事に聞いてみた。

「ちょっとお尋ねしますが…ローレンスは裁判で、どの程度の刑を科せられるんでしょうか?」

彼は少しの間考え込み、答えた。

「そうですね。人をさらった訳ではありませんから、およそ3年といったところでしょう」

…3年。
長いようで、しかし短い。
たかだか3年の懲役で…すっかり老博士の妄想に染まってしまった心は元に戻るものなのだろうか。

「やれやれ…」

夕方。ようやく全ての説明を終えた俺は、車から降りて肩をぐるんと回した。

屋敷の前の通りも、すっかりハロウィンの用意が調っていた。
オレンジ色の夕焼けの下、ジャック・オ・ランタンには明かりが灯り、気の早い子供たちはもう衣装を着て追いかけっこをしている。

深呼吸すると、カボチャの焼ける良いにおいがした。
警察の前で何時間も探偵を演じていた気の疲れも、どこかに消えてしまう。
もうお菓子がもらえる年じゃなくなったが、いくつになってもこの何とも言えないわくわく感が好きだな。

屋敷の古めかしい扉を開けると、ホールには天使が立っていた。

いつもの革ジャンではなく、ゆるいケープのような白衣。
その背中では、翼も隠さず広げられている。

俺は、反射的に翼を隠させようとするのをやっとのことで踏みとどまった。
…そう、これは"ただの仮装"なのだ。

「どう?」

と、ピットは両腕を広げてみせる。
怪我をしていない右翼も、心持ち広がった。

「まさに天使そっくりだな」

俺はそうコメントしてやった。

「当たり前でしょ? 本物なんだもん」

そこに、

「ピット君は天使の格好をしていくんだね。すごく似合ってるよ」

その声と共にルイージがやってきた。

「だってこれ、僕の普段着…」

言いかけたピットを、俺は目で黙らせる。

「もらったお菓子を入れていくのに、これを使うと良いよ」

ルイージはそう言って、カボチャを摸した籐のかごを渡した。

「わぁ~! ありがとうございます!」

ピットは目を輝かせてそれを受け取り、物珍しげにひっくり返したりしている。
まったく、こういうとこだけは子供っぽいんだがな。

ここに来る子達のためにクッキーを焼くから、と言ってルイージがキッチンに戻り、
ようやく俺は真剣な顔で最後の注意をする。

「いいか、その翼が本物だと言うことを悟られるなよ。
いたずらっ子がひっぱっても何ともないふりをするんだ。
まして、翼が動くところを他人に見せるんじゃないぞ」

「はいはい」

なんだこの無粋なおじさんは、という目で見てくる天使に、俺はこう言っておいた。

「お前が思ってる以上に、人間は珍しもの好きで詮索好きで乱暴なやつらなんだ。
ぜっ…たいに正体をばらすんじゃないぞ」

言うだけのことは言ってやったが、ピットを送り出しても俺の不安は消えなかった。
あいつは、頭は良くてもどこか変なところで抜けてるから、平気で突拍子もない言動をするのだ。

普段ニンテンドー大の学生相手にぼろを出さずに過ごせてることをさっ引いても、
今回の相手は年齢も職種も様々なサウィンの住人だからなぁ。

まぁ、送り出しちまった以上、俺が心配しても仕方がない。
なるようになれ、だ。

俺は後ろに腕を組み、ベンチの背もたれに寄りかかる。
フェンスを隔てた向こうからは、子供たちの歓声が聞こえてきていた。
通りを見れば、小さな怪物達が跳ね回り、お菓子をねだって家を渡り歩いている様子が見える。
彼らのルートには、当然この屋敷も入っている。

町のメインストリートの方では屋台とか、もう少し上の年齢でも楽しめるハロウィンがやってるらしいが、今回は遠慮させてもらおう。
…別に昨日あちこち駆け回って筋肉痛になったわけじゃないぞ。
昨日の夜で十分、ハロウィンは楽しませてもらったから。それだけだ。

玄関の扉を開けて迎えるサウィンの住人達も、昨日とは打って変わって明るい顔をしていた。
大人も子供も、心の底からハロウィンを楽しんでいる。
当然だろう。犬泥棒も無事捕まり、狼人間の正体も分かって目下の不安が解消されたんだからな。

だが、そのために俺が昨日どんなに大奮闘したのか。
本当に知ってるやつは誰もいないだろうなぁ。

おかげで試験問題には全く手をつけられなかった。
締め切りを延ばしてもらうのに、"難事件の推理で忙しくて"なんて理由、通るかなぁ…。

入れ替わり立ち替わり屋敷を訪れる小さなモンスター達を見やりつつ、
万感の思いをこめてため息をついたときだった。

「マリオさん!」

そう呼びながらやってくる少年がいた。

軍服らしい茶色の衣装を着込み、ちびっこ士官に扮装した金髪の少年。
今日は犬も一緒だった。こちらの方は赤白のキャスケットをかぶり、緑色の上着を着ている。

「やぁ君か。ボニーも元気そうだな!」

ボニーは俺のことを覚えていたらしく、俺の座るベンチに前足をかけ、嬉しそうに舌を出して息をついた。

「はい。
…僕、警察の人から聞きました。
狼人間をやっつけてボニーたちを助けてくれたのはマリオさんだって。
だから僕、お礼を言いたかったんです」

そう言うと、リュカ少年は気をつけをする。
ボニーもならって、お座りをした。

「マリオさん。ボニーを助けてくれて…ありがとう!」

「いやいや、お安いご用さ」

俺はにっこりと笑ってみせた。

狼人間を倒したのは正確にはピットだが、おびき寄せるのには俺も一役買っている。
体まで張ったわけだから、この「ありがとう」は俺が受け取って然るべきものだ。

小生意気な天使に振り回されて、聞き込みのために歩き回らされたり、
人様の家に忍び込んだり、雑用を押しつけられたり。

全く楽な仕事じゃないが、こういう瞬間があるからやめられないんだよな。
この"探偵ごっこ"というやつは。

<エピローグ>

「全く失礼なやつだなぁ!」

屋敷の部屋に戻って開口一番、ピットはそう言った。

「どうした、えらくご機嫌斜めじゃないか」

こいつが不満そうな顔をするとは珍しい。
俺は読みかけの『スターフォックス』から顔を上げて天使の顔をまじまじと見る。

「聞いてよおじさん。
たかだか10代の人間にバカにされたんだよ? この天界の由緒正しい正装を。
『その年にもなって天使の格好とかマジガキくせー』とか! ガキっていったい何のことなの?」

「何だ、意味も分からないのに怒ってるのか」

俺はニヤニヤ笑いを隠せない。
確かに、天使に仮装するのは6才とかそこらの女の子くらいだろうな。

「意味は分からないけど、あの子たちが僕を馬鹿にしてることは十分分かってたよ。
あぁもう、天界に帰ったら2人とも災難の矢で射てやる」

「全く、とんだ天使もいたもんだな」

俺は肩をすくめた。

「そうだ! ところで」

気まぐれな天使は、次の瞬間にはもう笑顔になっている。

「見てよこれ!」

差し出したカボチャのかごには、お菓子がぎっしりと詰まっていた。

コウモリ型のサブレに、オレンジと黒のステッキキャンディー。
カボチャの形のチョコレート、目玉に似せた砂糖菓子に、骨を摸した堅焼きクッキー…

「ほぉー、ずいぶん集めたな。俺にもくれよ」

と身を乗り出したが、

「だめだよ。これは僕がもらったものなんだから。ハロウィンは子供の祭りさ」

ピットはかごを引っ込め、俺の手から遠ざける。

「お前は子供と言えるのか」

そう言ったが、天使には聞こえていない。
テーブルにかごを置き、黒い革ジャンを取りに行ってしまった。

だが、俺は諦めないぞ。
あいつが自分の寝室に姿を消した頃を見計らい、そっとかごに手を伸ばす。

目標はあの、俺に手招きしているジンジャーマンクッキー。
なに、これだけありゃぁ1枚失敬したって気づかれまい。

「それにしても、ハロウィンはいつから子供のためのものになったんだろうなぁ」

向こうでピットが言っている。

「昔はもっと違ったんだよ。
先祖のお墓に食べ物を供えて祀ったり、家を渡り歩いてケーキと引き換えに幸せを祈ったり。
まぁ、その頃はハロウィンって呼ばれてなかったけど」

「ふーん、そうなのか…」

俺はなるべく自然に相づちを打つ。

ピットが絶妙な位置にかごを置いてしまったため、
音を立てず、つまり椅子から身動きせずにとるには、腕をめいっぱい伸ばすしかない。

「でも僕は、今のハロウィンが一番好きだな。上から見てたときもそう思ってた。
すごかったよ。サウィンの通りはみんな、仮装した子供たちで一杯だった。狼人間に化けてる子もいたなぁ。
うん、本当に来た甲斐があったよ」

「そいつは良かったな」

こっちももう少しで手が届きそうだ。
椅子から前屈みになって、胸と膝をくっつかんばかりにして手を伸ばす。

よし…もう少しでジンジャーマンを掴める―

「―いでっ!」

右手が何かに弾かれた。

高く跳ね上がって床に落ちたそれは鉛筆。

急いでピットの方を見ると、あいつはいつの間にか寝室の戸口に立ち、天界の弓を構えていた。
あれで俺の手目がけ鉛筆を発射したのだ。

「本当におじさんは芝居が下手だなぁ。そんなに不自然な返事してちゃすぐに分かっちゃうよ」

ピットはそう言って、口の片端でにやっと笑う。
初めっから気づいてたのに、ギリギリまで俺の苦闘を放っといて面白がってたってわけか。

「それにしたって、何もいきなり実力行使するこたぁないだろ」

俺は負傷した右手をさすりつつ、文句を言う。

「僕のお菓子を取ろうとするからだよ。これは言わば天罰だ」

ピットはすました顔でそう言って、純白の翼をこれ見よがしに広げてみせた。

「天使の目をごまかすことは、誰にもできないのさ」

<白衣の名探偵 -モロー邸の人狼- 完>

裏話

こちらは2013年の秋に『スマブラ図書館』で開催された、小説企画に持ち込ませてもらったお話です。
このときのお題は『ハロウィン』。ハロウィンに因んだ文言5つのうちどれかを必ず出す、という縛り付でした。
前回で味を占めてしまった私は、もはや最初から変化球を投げる気満々でした。
その結果、またしても筆が暴走することに。分量も前回より長くなってますし……
なんちゃってミステリーですから一発ネタとしてはごまかしが利きますが、これ以上続けるのは無理でしょう。
でもこのオジサンと生意気天使のコンビ、書いてて面白かったです←

※蛇足
掘り返していたら設定らしきものが見つかったので、お暇な方はどうぞ。

性格設定

マリオ(Dr.マリオ)
ニンテン大学医学部教授。微生物薬理学の教室を持つ。
30才にして教授へと出世したばかりか、近頃は名探偵として巷で噂になっており、
周りからは憧れあるいは胡散臭げな目で見られ、それでもって彼はその根源たる天使のことが面倒。
一人称は俺で、あまり教授らしくないほど陽気で楽天家。だけど地頭は良い。

ピット
人として持っているべき常識というものがなく、マリオのことも平気でおじさん呼ばわりする小生意気な自称天使。
しかし、彼の洞察力はそれこそ本当に常人離れしており、その観察眼によって人を正確に見抜いている。
ナナカマド博士の孫ということで校内には通っており、その人柄から学生達にはすこぶる評判が良い。
紛失してしまった鏡の盾を探している他、羽を負傷中で飛ぶことができない。

※名探偵ピット……
ハイ。お気づきの方も多いかと思いますがおもむろに声優ネタです。コナンあんまり見たことないんですけどね!←
でも声繋がりで探偵ポジションに据えただけだったりします。せいぜいが"正体を隠している名探偵"ってくらいかな? 共通点は。
性格の方はどっちかというと、公式を知らずに組み上げてしまったオラ設定からの反動が原因でしょうね。
悪気があったわけじゃないんだ。許しておくれ。

ナナカマド博士
空から落ちてきた天使を拾い、ニンテン大で保護していた生物学教室の博士。シュルム大時代のマリオの恩師である。
引退して古巣のシンオウ大学に戻ることとなり、マリオに後を頼んだ。

ハル・エメリッヒ
ニンテン大学工学部の助教。二足歩行ロボット(名称:メタルギア)の研究を行っている。20代後半。
マリオとは、同期で大学に赴任した関係で仲が良い。
あまり身だしなみを整えていないが、好奇心に満ちた研究者ぶりは立派の一言。
また、天才ハッカーとしての一面もある。現在アラスカに在住しているデイビッドという友人がいる。
彼が研究室を持つ日には、その部屋はきっと"ハル研"と呼ばれることだろう。

ルイージ
マリオの弟。知り合いのオヤ・マー氏からサウィンにある屋敷の管理を任されている。
以前そこで起きた幽霊騒ぎに困っていたところを、マリオとピットが解決。
掃除や庭仕事をマメにこなす、あまり大家さんらしくない大家さんである。

ゼルダ
文学部3年の演劇部部長。
上流家庭の才媛である。1才年下の彼氏(リンク)がいる。礼儀正しく物静か。

リュカ
サウィンに住んでいる金髪の少年。ボニーという犬を飼っている。父子家庭。
ちなみにボニーの仮装の元ネタはMOTHER3から。(クラブチチブーへの潜入時)
リュカの方も、MOTHER3におけるキマイラ研究所の潜入時、兄と間違われて着替えさせられた時の格好をイメージしてたり。

※ついでに誘拐された犬たちの元ネタ
ラブラドール→nintendogs
ミック→MOTHERの主人公が飼っている。
ヘルガー→ポケットモンスター金銀の四天王カリンの手持ち。
シルバーはオリジナル。

法学部3人組
3年生のマルスとアイク、そして2年生の後輩ロイ。
部活はバラバラなのだが、何かと仲良くつるんでいる。マリオの部屋の常連である。
ちなみにマルスは硬式テニス部(ネタ)、アイクは野球部、ロイは剣道部だったり。

その他元ネタ

町の名前の由来
ハロウィンの元になったとされる、ケルト人の祭り『サウィン祭』から。

モロー博士
まぁ有名どころから持って来ちゃってます。(H.G.ウェルズ『モロー博士の島』)

ローレンス・タルボット
映画『狼男』の主人公名から。

ウエストリバー病
元ネタは"ウエストナイル病"です。(こちらは何に因んだ訳でも無く、ただ名前を持ってきただけ)

タイトル参考元
A.C.ドイル『バスカビル家の犬』。
医師と変わり者のコンビなので、これってどちらかと言うとコナンよりホームズがイメージ元かも。

おまけ
ボツになったプロローグ
ボツになったファーストコンタクト
ボツになった名探偵シーン

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