気まぐれ流れ星オリジナル小説

バルデ海 第三観測塔

<第1日>

おれは窓に向かってため息をついた。
ガラスはすぐに白く曇った。

――よりによってこんな所とは…。

おれを乗せた船は、揺れに揺れている。おれは船酔いしかけていた。
季節は8月の頭だというのに空はどんよりと曇り、灰色の雲の底から絶え間なく雨が降ってきている。

――『三食部屋付き』っていうから楽そうな仕事だと思ったんだけどな。
 広告、よく見ときゃよかった。
 …こんなことを今思ったってしょうがないか。

少しずつ、地平線の一点に見えていた塔が大きくなっていき、その姿を現した。
わずかに傾いだ、古ぼけた灯台。そんな感じだ。
これが"観測塔"なのか? おれのイメージと全然違う。

「ハッハッハ、驚いたかな?」

船長が陽気に言った。

「あれが目ざす第三観測塔だ。見た目はちと悪いが、住み心地はいいぞ」

船は波に苦労しながらも塔にたどり着き、そこから延びた桟橋に横付けした。
おれと船長は船から降りた。
土砂降りの中、塔の入り口にたどり着く。

「おーい、じいさん!」

船長が塔の中に大声で呼びかけた。

――じいさん?

塔から出てきたのは、確かに『じいさん』だった。
日焼けした丈夫そうな肌、鉄のような色をした硬そうな髪、
使い慣れてそうな少しよれよれの作業服、黒いゴム長を履いた元漁師みたいなじいさんだ。
やせてやや背が高いその漁師風のじいさんは防水紙でできた書類の束を抱えていたのだが、それがかなりミスマッチだった。

「このぼうずが新入りだ」

船長が言った。

「名は何だ」

じいさんはおれを見て言った。鋭い眼光だ。

「おれ…ギアって、言います」

気がつくとおれは、柄にもないていねい口調になっていた。

「塔の中に入っていろ」

「あ、はい」

――何だか恐そうなじいさんだな…。

おれはそう思いつつ、塔の中に入った。

塔の中は意外と広く、外の雨音も少ししか聞こえてこない。
明かりがついていないので薄暗かったが、階段があることが分かった。

もの凄く静かだ。
歩くたびにおれの足音が響き、"ごおぉん、おぉん…"というような不思議な音が広がっていく。

上には誰もいないようだ。
そうすると、さっきのおっかないじいさんが観測員なのか? そうは見えないけどな…。

<第2日>

じいさんはおれの名を聞いたくせに自分の名は教えなかった。
仕方ないので『じいさん』と、ただそう呼ぶことにした。

昨日、こんなんじゃ『三食部屋付き』も怪しいもんだと思っていたが、部屋はちゃんとあった。
塔の最上階 - 今も現役の投光器がある - の1つ下の階にある、小さな部屋だ。
ちなみにじいさんの部屋も、観測室もその階に収まっている。

おれの部屋には潮風で湿っているベッドが1つ、タンスが1つ。その他には何もない。
まぁ、海のど真ん中で望める部屋って言ったらこのくらいのものだろう。

今朝は午後6時に起きたが、じいさんはもっと早くに起きていたらしく、もう机に向かって仕事を始めていた。

おれが部屋から出てくると、じいさんはこっちをチラッと見ただけで、また自分の仕事に戻った。
仕事は目で見て覚えろってことなのだろうか。
おれはとりあえずじいさんの後ろに立った。じいさんは何かを紙に書き付けている…と、

「ボサッと立ってないで自分の仕事をやれ」

机に向かったまま、じいさんが唐突に言った。

「えっ…と、何すればいいっすか」

おれが言うと、じいさんは驚いた目でおれを見た。

数十分後。
おれもイスに座り、窓から差しこむ陽の光を照明に、うけもった仕事をしていた。

じいさんはぶっきらぼうながらも、結構詳しく観測塔の機器について教えてくれた。
「こういうことはオカの連中から聞かなかったのか」とか呟きながら。

ここの機器は全て、塔の中や外に備え付けられている数々の観測機器と繋がっていて、
そこから送られてきた情報をある程度整理し、プリントアウトするようになっている。
上からは見えないが、塔と海底との短い距離の間には、防護ネットで守られた観測機器もあるそうだ。

おれとじいさんの仕事は、時々プリントアウトされてくる情報を見て、計算したりしてまとめることだ。
昨日じいさんが持っていた紙の束は、一週間分貯められた天候や海水温といった情報だったのだ。

なるほど、面接で高等数学のテストがあったのはこのためか。

ついでに『三食』のほうだが、昨日おれが乗ってきた船が週に一度、
じいさんから観測結果を受け取るついでに、日持ちする食糧を一週間分置いていってくれるらしい。
塔の一番下は倉庫になっていて、昨日運ばれてきた分が置いてあった。

<第5日>

おれはアルバイトだが、じいさんはそうじゃなさそうだ。
歳はおれの何倍もありそうなのに、仕事をこなすスピードは半端じゃなく速い。
この道一筋って感じだ。

じいさんが仕事をしているところを見るまで、
おれは、じいさんが歳をくったんで助っ人にアルバイトを呼んだのかと思っていた。
実際そうなのかもしれないが、でもおれが見る限りじいさん1人でもやっていけそうな気がする。

塔と外を繋ぐのは週に一度の船と、でかいわりにたまにしか電波を拾えないラジオ、
そして塔の観測室にあるモールス信号の器械だけだという。

確かに数十年前にあった戦争でそれまでの技術はほとんど失われてしまったと、
小さいころに学校で教わっていたが、いまだにモールス信号というのはオドロキだった。

今日は見つけた魚群3つを、その器械で近くの漁船に知らせた。

仕事が一段落した頃、じいさんはおれに言った。

「釣りに行くぞ」

釣り? 気分転換ってことか…?

外はよく晴れていた。

おれとじいさんは塔の桟橋の端に腰掛けて釣り糸を垂らしている。
すでにバケツには数匹の魚がいる。

魚釣りならおれも経験ありだ。まもなく、1匹の魚を釣り上げる。
だが、じいさんはそれを見ると言った。

「それはまだ小さいな。逃がしてやれ。これくらいのにならんと食用にはできんぞ」

と、横のバケツの魚を指す。

「え…。じいさん、この魚食べんの?」

「当たり前だ。何のために釣ってると思ってたんだ?」

「でも週一で船が食料を置いていくんじゃ…」

「あれはいつも週に一度来られるわけではない。
海の荒れようによっては、しばらくここは取り残されるんだ」

おれは固まってしまった。

「糸、引いてるぞ」

じいさんが言った。

<第10日>

仕事をしているとき、仕事場はものすごく静かになる。
生まれ育った街の喧噪に慣れていたおれは、その静けさが段々と嫌になってきた。
ここには波の音、鉛筆を走らせる音、機器が紙をはく音、おれが鉛筆を落とす音くらいしかない。

――何か音楽が欲しいところだよな…。

鉛筆を指でもてあそびながらおれは観測塔を見渡した。
と、すぐにおんぼろのラジオが目に飛び込んできた。

「じいさん、ラジオつけてみてもいいか?」

「構わんが、壊れてるぞ」

じいさんは机に向かったまま言った。

じいさんの言ったとおり、ラジオからは雑音混じりの音しか出てこなかった。
でも、軽く叩いてみると少しの間音が良くなる。

「直るかもしれないな…」

おれは呟いた。

休憩時間、おれは備品のドライバーを使い、ラジオを分解掃除した。
ラジオは中にまでホコリが詰まっていた。
一体どのくらいの年月ほったらかしにされていたのだろう。

結局そのホコリが原因だったらしく、掃除をしただけでラジオの音は格段に良くなった。

おれは早速ラジオを抱えてじいさんのいる観測室に戻った。
ラジオを床に置き、スイッチを入れる。
すぐにラジオから陽気な音楽が聞こえてきた。

「おお…」

さすがのじいさんも目をぱちくりさせていた。

「どうだいじいさん、すごいだろ?」

おれは自慢げに言った。

「これから器械の修理はお前に任せたほうがいいな。
わしはもう老いぼれちまって細かい仕事ができん」

そう言って、じいさんはちょっと眩しそうな顔をした。
あまりに控えめなもんで、それが笑顔だと気づくのにおれは数分かかった。

――なんだ、じいさん本当はシャイなだけで、それほど恐い人じゃないのかもな…。

おれは思った。 『お送りしたのはラジオネーム"リスボン"さんからのリクエストで、"We can work it out"でした。アーティストは―』

夕方、この前おれ達が魚群の場所を知らせた漁船が、新鮮な魚を持って灯台に寄ってくれた。

「こいつはこの前のお礼だ。獲れたてだから旨いぞ」

料理の上手い漁師がおれ達に魚を焼いてくれた。
ここのところ焼き魚は干し魚を焼いた物しか食べていなかったから、なおさら旨く感じた。

「旨いか?」

「ハイ、旨いっす!」

おれはすぐに答えた。

いつもは静かな灯台の桟橋が、今日は思いがけないお客で賑わっている。
どこかから漁師の歌が聞こえてきた。それはすぐに、合唱となる。

いいよなぁ、こういうの。

<第15日>

今日も快晴。船もいつも通り来た。

おれが船に積まれた食糧を運び込んでいると、船長が深刻な顔をしてじいさんと話し込んでいるのが見えた。
何を話しているのか気になり、塔の入り口で立ち聞きしていると、じいさんにさっさと運べと言われてしまった。

荷物の全部を倉庫に運び終わり外に出てみると、話はもう終わり、船が出るところだった。

「じいさん、さっき何話してたんだ?」

「近いうちに嵐になると、船長に話していた」

「嵐? こんなに晴れてんのに」

「確かに見た目はそうかもしれん。しかし、気圧は確実に下がっている」

おれは計算するだけだから気づかなかったが、じいさんは器械がはき出すデータからそんなことまで読み取っていたらしい。
いや、本来観測員の仕事とはそういうものだった。あったことを観測するだけじゃなく、これから起きることも予測する。
そうして海上や海辺の安全を守るのだ。

じいさんは結構頭が良いらしい。
本当に少しずつしか喋らないが、おれが聞き出せた分からまとめると、
若い頃はどこかの気象観測所のようなところで助手をしていたというのだ。
家族はこの海に面した町に住んでいて、孫もいるとか。

おれはこう聞いてみたことがある。

「家族もいるのに、なんでこんなとこで働いてんだ?」

じいさんは窓の外を見たまましばらく黙っていたが、ようやくこう言った。

「そうだな…いろいろあるが、海が見えるところで、たった1人で暮らしてみたいという願いがあったというのもある」

「もしかして、おれが来ないほうが良かったのか?」

「いや、さっきのは若い頃の話だ。
かえってこの歳になるとお前のような若いやつがいてくれたほうが、脳みそには良いかもしれん」

それにしても、『海が見えるところで一人暮らしをしたい』なんて、
じいさん、ロマンチストなんだな。

<第20日>

昼過ぎ、おれとじいさんが干し魚と缶詰の遅めの朝食を食べていると、やけに外が騒がしくなってきた。
カモメの声だ。
外で干してある魚につられて集まってきたらしい。

魚には触れないようにして鳥よけの網を掛けてあるが、おれとじいさんは外に出て様子を見てみた。

「うわァ…」

外では、たくさんのカモメが群れ飛んでいた。
ひときわ集まっている塊。そこにおれ達の食糧がある。
そいつらは網の隙間から嘴をつっこみ、魚をつまみ出そうとしてギャアギャア騒いでいた。

「こらーっ! あっち行け!」

おれが怒鳴りながら走っていって追い払っても、すぐに戻ってきて網を突っつきだす。

そうしてカモメに振り回されているうちに、すっかり汗だくになってしまった。
仕方がないので、今日はいつもより早めに魚を塔にしまうことにした。

「30匹は持ってかれたな…」

おれはため息をついた。
あの中にはおれが釣ったやつもあっただろうなぁ。

「また釣ればいい。
それに、カモメだって生きていかねばならん。30匹くらいくれてやったって良いだろう」

じいさんはそんなことを言っている。

この日はものすごくきれいな夕陽が見られた。
地平線の向こうが燃えるような赤に染まり、あたりに暖かい光を投げかけている。
どこまでも広がるオレンジ色の海を見ていると、自分が小さくなったように感じる。

おれが桟橋に出てその光景を眺めていると、じいさんも外に出てきた。

「これから天気は下り坂だな…」

出てきしなに、じいさんは険しい顔をして言った。

「じいさん、せっかく人が良い気分で夕陽見てんのに、そりゃないだろ」

「この夕陽だから言っているんだ」

「ん?」

「夕陽が赤いと、近々天気が荒れるんだ」

「へぇ…でも、何でだ?」

「普通この角度で差しこむ光は、大気中のチリなどに散乱されにくい赤や黄色の光だけが届く。
だから夕陽はたいていオレンジ色に見える」

「ふうん」

「ところが嵐をもたらす雲が近いと、その雲の頂から吹き出す細かな雪の結晶がさらに光を屈折させ、赤い光しか届かなくなる。
夕陽がこんなにも赤いのは、近くに雨雲がある証拠なんだ」

「なるほどなぁ…」

じいさんの口調は全くよどみがなかった。さすがは元気象観測所の職員だ。
分かっていたことだけど、おれはまたじいさんを見直した。

<第23日>

じいさんの言ったとおり、昨日あたりから雲行きが怪しくなってきた。
今は雨は止んでいたが、相変わらず空は嫌な感じに曇っている。

風もひとまず止んだみたいなので、おれは塔の最上層に出てアンテナの修理をしていた。
最近このアンテナの土台が弱ってきたらしく、風が吹くたびキシキシと変な音を立てていたので見てみると、
金具のいくつかが見事に錆びきってしまっているのが分かった。

じいさんは後で良いと言っていたが、これから嵐が来るんじゃアンテナが飛ばされてしまうかもしれない。
天気が落ち着いた今のうちに直しておくべきだ。

おれは錆びていた所を取り外し、新品の金具をネジで留めていた。

しかし、そこで急にあたりが暗くなり、雨が"ゴォーッ"というようなものすごい音を立てて降ってきた。
遅れて風がどんどん強くなっていく。
じいさんが1つ下の階から顔を出し、「中に入れ!」と言っている。

おれは最後のネジを何とか締めると、ドアに向かって走ろうとした。

が、その瞬間おれの着ていた雨合羽が風をはらみ、おれは思わずよろめいた。
そして追い打ちをかけるように突風が飛び込んできて、おれは宙に浮いた。

轟音を立てて吹き荒れる風に押され、おれはあっという間に手すりを越え、灯台から引き離されていった。
灰色の空と荒れる海、そびえ立つ灯台が目に入る。

――あぁ、初めて来た日もこんなだったかな…。

ぼんやりとそう思ったのも束の間、おれは背中から海に叩きつけられた。

おれは目を開けた。まわりが青い。
目が慣れてくると遠くの様子がだんだん見えてきた。

街が見える。
おれは町の上に浮かんでいるようだ。

人はいない。ただ魚の群れがビルの間を泳ぎ回っている。
ひどく静かだった。

おれはしばらくぼんやりと街を見おろしていた。
すると、小学校6年生の時の先生の声が耳に甦ってきた。

――こうして始まった第3次世界大戦は、突然起こった地球規模の大変動によって勝ちも負けもなく幕を閉じたのです。
 土地が沈んでいったり、気候がガラリと変わってしまったりして国を追われた人は何億人にも…
 あら、ヒギンズ君、起きなさい。今はお昼寝の時間じゃないのよ。

暗く、青い底から生えてきたような街は、どこまでも続いているようだった。

遠くに何かが見える。
こちらへやって来るようだ。

おれの周りの水が震動する。音が聞こえる。
これはクジラの声だ。何かで聞いたことがある。
するとあれはクジラか…。

クジラは街の上をゆったりと泳いでやってくる。途方もなく大きな影がビルの上に被さっていく。
その幻想的な光景に見とれていたのも束の間、そこでおれは急に息苦しさを感じ、我に返った。
おれは慌てて海面めがけて水を掻き、泳いでいった。

海から顔が出た。また嵐の音が頭を包み込む。
おれはヒューッと笛のような音を立てて空気を吸い込んだ。
雨まじりだったが、心の底から感謝したくなるくらい新鮮な空気だった。

激しい波の間から、じいさんが桟橋に立ち、おれに向かって救命浮き輪を投げるのが見えた。
浮き輪はおれのすぐ近くに落ち、おれは無我夢中でそれにしがみついた。

「よく無事だったもんだ…」

じいさんは感慨深げに言った。
おれはゆっくりと頷いた。
今思えば、塔のてっぺんから海に落ちて怪我1つせず生きて戻れたのが不思議なくらいだった。

おれとじいさんは、また桟橋に腰掛けて海を見ている。
嵐はもう過ぎ去っていた。あれほど荒れていたのが嘘のように、海は静かに凪いでいた。
隣のラジオからは、曲名は分からないが、どこか今の海を思わせるおだやかで不思議なリズムの曲が流れている。

「そういやじいさん。おれ、海の中で街を見たよ」

「街…? そうか、ここも昔は陸だったからな…」

「ずっと昔には海はもっと低かったとは聞いてたけどさ、実際に見てみると本当に不思議な景色だったな。
おれが生まれてもいない頃には、あそこは人で賑わう街だったと思うと…」

おれはそこで口をつぐんで海を眺め、その底にあった街の様子を思い出していた。

「この灯台も…元は岬に建てられたものだったそうだ」じいさんが言った。「その岬も、ここが沈んでいく途中にできたものだったらしい」

「今も海は高くなってるのか? じいさん」

「ああ。少しずつだがな」

おれとじいさんの間に、しばらく沈黙が流れる。
と、遠くの方で海水が吹き上がった。

「クジラだ」

「珍しいな」

――あのクジラだろうか…。

クジラの吹き上げた海水は、キラキラと陽の光に反射して光り、美しい夕焼け空をバックに散っていった。

バルデ海での8月が、もうすぐ終わろうとしていた。

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