焦げ茶の猫
その街には、小さな食堂『ハルニレ』があった。
ここでは、とある女性がアルバイトで働いている。
そして彼女は、あるノラネコの面倒を見ていた。
「ミヤちゃんたら、またそのネコ店に入れちゃって!」
食堂の店主の奥さんが眉をひそめた。
「いいじゃないか、お客のとこへは行かないようにしてるんだから」
店主は大して興味の無さそうな声で言った。
「そうだとしても、調理場を引っかき回したらどうするのよ。あら、あなた?」
店主はすでに奥さんの声が届かない調理場の奥に引っ込み、
これから夕方にかけてやってくるお客のためのスープを見るふりをしている。
「もう! あなたったら…」
奥さんは立ち上がりかけたが、
「いいです、伯母さん。私、外に置いてきます」
ミヤコはそう言ってネコを抱え、体でドアを押し開けるとそっと外に出て行った。
外では、早くも暗くなってきた空に半欠けの月が昇りつつあった。
公園を歩くミヤコの腕の中では、焦げ茶色のオスネコが不機嫌そうに縮こまっている。
「ごめんね、寒いでしょ…?」
ミヤコはネコに話しかけた。話すと、息が白く曇る。
「でもしょうがないのよ。伯母さん、動物が苦手だから」
レストランの店主フジワラさんの妻、ミヤコの伯母は、動物は不潔で手に負えないものと思っているところがあり、
特にミヤコが『ココア』と呼んでいるこのネコのことは、ネズミすらとらないふてぶてしいぐうたらネコだと決めつけているのだ。
確かにこのネコは寝っ転がるか何かを食べているかというところしか見られない。
だが、そのわりにはスリムなネコであった。
調理場に紛れ込んだハエでさえ面倒くさがって追いかけず、通路の真ん中や棚の上に陣取るようなこのネコが、
自分の姪っ子に可愛がられているのでなかったら、伯母さんはきっとこのネコを追い出してしまうことだろう。
「ここに座ろっか」
ミヤコはネコを抱いたまま近くのベンチに座った。
目の前には、冬が近くなったので水が止められている噴水がある。
月の光でいっそう白く見えるその噴水は、一種の彫刻のようだった。
ミヤコはその噴水をぼんやりと眺めながらネコを撫でている。
ネコはようやく機嫌を直したのか、彼女の膝の上で丸くなった。
しかし、そのヒゲは何かを捉えているかのように細かく震えていた。
ミヤコにいつもの元気がないことを分かっているかのようだった。
やがて、ミヤコはこう切り出した。
「ねぇ、ココア。聞いてくれる?
私、大切なネックレスを無くしちゃったの。ハルオ君のプレゼントの…。
ほら、もうすぐクリスマスでしょう? 私、あのネックレスを着けていこうって決めてたのに…」
しかし、そこで不意にネコはミヤコの膝からひらりと飛び降り、ゆったりとシッポを振りながら行ってしまった。
「もう…」
ミヤコは少しだけ笑った。
そして軽くため息をつくと、レストランの方へと歩いていった。
ビルの隙間。道とも言えない狭い通路を、あのネコが走っている。
全身焦げ茶だが、彼の胸には1つ、白いブチがある。
ミヤコは彼のことを『ココア』と呼んでいるが、ここらでは『ホシ』と呼ばれている。
もちろんこれは胸のブチから来ている呼び名だ。
表通りからさまざまなクリスマスの音楽が一緒くたになって聞こえてくる。
それを背景に、ホシは暗く、埃っぽい道をひたすらに駆けていった。
「おい、マダラ! いるか?」
ホシは袋小路のゴミの小山に呼びかけた。
やがて、その中から寝ぼけた声で返事が返ってくる。
そしてのそのそと黒と茶のブチネコが出てきた。
「やぁ、あんたか」マダラは1つ欠伸をし、「どうしたんだい、そんなに急いで…」
「探し物さ」
「何を探している?」
「ネックレスだ。銀色で、小さくて透き通った石がいくつかはめこんである」
「あぁ、それなら見た」
「そうか」
ホシの緑の目がきらりと光る。
「どこでそれを見た?」
「ふ~む、どこだったかな…」
マダラは横目でホシを眺め、その足下に置かれているものに目をとめた。
「おぉ! マタタビじゃないか!」
「これが代金だ」
ホシは前足でマタタビをマダラの方に弾いた。
「そのネックレスなら、『カササギ』が持ってたぜ」
マダラは言い終えると、マタタビにむしゃぶりついた。
「そうか、わかった」
ホシは再び闇の中に消えていった。
『カササギ』といっても彼は鳥じゃない。収集好きのネズミだ。
特に光り物を集めるのが好きなので、そういう名前で呼ばれている。
彼は今日も、街中駆け回って集めたものをせっせと巣に詰め込んでいた。
カササギの耳が不意にピクッと動き、次の瞬間、彼の姿は巣の中に消える。
そして鼻だけ出して外を窺い…
「なんだ、旦那じゃないですか。驚かさないで下さいよ…」
カササギはそう言いながら巣の外に出た。そこにはホシが立っている。
「あっしに何か用で?」
ホシが黙ったままなので、カササギは自分から尋ねかけた。
「お前のコレクションに用がある」
「あっしのコレクション…?」
カササギの尾がゆっくりと円を描いた。
「そうだ。最近ネックレスをここに持ってきたか?」
「ネックレス……あぁ…」
「あるのか? ないのか?」
「ありますがねぇ…」
カササギは少し困った顔をした。
「それを返して欲しいんだ」
「やっぱりそう来ましたか…。
でも旦那、あんなに大きなお宝はなかなか手に入るもんじゃないし…」
未練がましい顔を向けるカササギに、ホシは真剣な声で言った。
「カササギ、いつもオレは『ハルニレ』に入ってくるお前たち、ネズミには手を出さないようにしている。その借りを返してほしい」
カササギもホシの恩義を受けている。迷っていたものの、やがてため息をついて彼はこう言った。
「……分かりました。今、持ってきますよ」
しばらくして、カササギは名残惜しそうな様子で口にネックレスをくわえて戻ってきた。
ミヤコのネックレスだった。
「これですかね」
カササギは上目遣いにホシを見て言った。
「ああ」
ホシはネックレスの鎖をそっとくわえ、その場を去った。
ホシが見えなくなった頃、物陰で様子を見ていたネズミたちがそうっと出てきた。
「もう行ったの?」
「行ったよ」
「でも変だね。私達が隠れているのに気がつかなかったみたい。
いくらホシでも私達のにおいに反応しないわけないのに」
「あのネックレス、そんなに大切なものなのかなぁ」
「ホシが着けるんじゃない?」
「ばかだなぁ、ネックレスはニンゲンの着けるものだよ」
「じゃあ、なんであれを持って行ったんだろう?」
「ホシはね、『ハルニレ』のニンゲンの女の子に可愛がられてるんだよ。
きっとあのネックレスは、その女の子のものだったんだよ」
「でもホシはノラネコだ。なんでたったそれだけのニンゲンに構うんだ?」
クリスマスの朝。
「聞いてよココア、ネックレスが見つかったの!」
ミヤコの顔は喜びに輝いている。
「キッチンに落ちてたのよ! きっとあそこに置き忘れてたのね」
興奮するミヤコをよそに、ネコは毛繕いをしている。
「キッチンは何度も探したんだけど、何で今まで見つからなかったのかな…まぁ良いか。こうしてネックレスが見つかったんだし!
…あら、ココア、聞いてるの? ねぇ!」
外でしんしんと雪が降る中、
焦げ茶色のネコは暖かなストーブの前で丸くなり、ぐっすりと眠っていた。