気まぐれ流れ星オリジナル小説

雲と少年

少年は、目を丸くしてその雲を見つめていた。
雲と言っても、それは空にあるものではない。
いや、本来は空にあるべきものが、どういうわけかそこにあるのかもしれない。

ともかく雲は、丘の上の若木に引っかかっていた。

少年はずいぶん長い間、ぽかんとその光景を見ていた。
この丘陵公園にピクニックに来た彼は、ちょっとした好奇心と冒険心から、1人でそこらを歩き回っていたのだが、
まさかこんなものと出くわすとは思ってもいなかったのだろう。

「パパー! 雲が木に引っかかってるよー!」

大声でそう言いながら、少年は来た道を駆け戻っていった。

やがて、少年が戻ってくる。
父親の後について、さっきよりも雲の近くへ来た。

雲はやはり、木に引っかかっていた。
2人が乗ってきた車より少し小さいその雲は、若木の茂りに半分がた埋もれていた。
のみならず、それは自由な方の半分をぐいぐい動かして、木から脱出しようとさえしていた。
そのたびに若木はわずかに揺れたが、枝は頑として雲を放そうとしなかった。

「こりゃあ…」

言いかけて後が続かず、少年の父親は口をぽかんと開けたままその不思議な光景を見つめる。

「ね、本当でしょ?」

少年はどこか得意げに言う。
父親は、少年が変わった質問をしたときに見せてくれる、いつもの困ったような笑っているような顔をしていた。
そして少年は、父親のそんな表情が大好きだった。

「うーむ…」

父親は顎に手を当てる。
雲が木に引っかかっている、というのは何かしらの子供らしい比喩だと思っていたのだ。
が、ともかくこうして目の前にあるということは、これは事実本当のことなのだ。

今、雲は疲れてしまったのか、そのもやもやとした白い不定形の体をちぢこませて休んでいるようだ。
風が、雲の背中を柔らかくなでていった。

「パパ、助けよう」

少年が呼びかける。
父親は頷き、ゆっくりと用心深く雲に近づいていった。
手の届くようなところまで来たが、雲はまるで木から下りられなくなった子猫のように身を縮め、じっとしていた。

「枝がからまったんだな」

しばらく雲とその周りの枝を調べて、父親はそう言った。
羊の毛のような雲の体が、若木の細かな枝葉と見事にからまってしまっているのだ。

父親は軽く枝を引っ張ってみたが、見えない抵抗に阻まれ、枝が抜ける気配はなかった。

父親は枝を切るナイフをとりに戻ったが、少年は雲と一緒に丘の上に残った。
雲をひとりぼっちにしたくなかったのだ。

危ないことがあったらすぐに逃げるんだよ、とは言われていたが、少年は雲が恐いものではないと分かっていた。
少年は器用に木を登り、雲のそばに行く。
雲に近づくと、日だまりのにおいがした。

「ねぇ、さわっても良い?」

少年は雲に聞いた。
雲は返事の代わりに、もやもやした体の一部を少年の方に伸ばした。

少年の小さな手が、雲に触れる。
羽毛と泡の間のような、軽く柔らかい手触りだった。

雲が、ふわふわとその体を揺らす。
くすぐったくて笑っているようである。少年もその様子がおかしくて、笑った。

少年は、枝にちょこんと腰掛けて空を眺めている。
雲も、一体どこに目があるのか分からないが、少年と同じ方向を眺めている風だった。

空は青く、春の光をいっぱいに含んでどこまでも透き通っている。
大きくて真っ白な雲が、ぽかりぽかりと流れていく。
それらは、若緑の丘に淡い影を落としていた。

「きみ、空から来たんでしょ?」

空を見上げたまま、少年が聞いた。

「きっと、おかあさんやおとうさんに内緒で、下に降りてきたんでしょ?」

そして、雲に顔を向ける。
雲は、ほわりと体を揺らした。
それが少年には、舌をぺろっと出してばつが悪そうに笑っているように見えた。

「大丈夫、誰にも言わないよ。ぼくらのひみつにしよう。
ぼくも時々、行っちゃだめってとこに行きたくなるから、きみの気持ち分かるよ」

そうして、少年はおかしそうに笑った。
雲も、ほわほわと体を揺らした。

やがて、父親がキャンプ用品の万能ナイフを持って戻ってきた。
息子が雲のそばにいるのを見て驚いたようだったが、彼が雲と楽しそうに話しているのを見て安心する。

「もう帰しちゃうの?」

こちらにやってきた父親を見つけ、少年は少し残念そうな顔をした。

「雲が住むのは空の上だ。元いたところに戻してあげよう」

父親がそう言うと、少年はしぶしぶ頷く。

少年は、父親が枝に切り込みを入れて折っていく間、雲に触れ、話しかけて安心させていた。
雲が少しナイフを恐がっているように見えたのだ。

「今助けてあげるからね。この枝が全部切れたら空に帰れるよ」

そうしているうちに、少年の座っている枝の先、最後の一本が折り取られた。

雲は、そろりと体を動かす。
所々に枝を飛び出させた半身が、ゆっくりと木から離れていった。

「わぁ、うかんだ!」

少年が目を輝かせる。

洗いたてのシーツのように真っ白で、綿菓子のように柔らかな雲が、丘に立つ親子の頭上に浮かび上がった。
心なしか、少しふくらんだようにも見える。

2人が見る間に、雲はふわふわと体を揺らしながら空へと昇っていった。

「…ほら、手を振ってる!」

少年が言った。
確かに、雲が体を揺さぶるたびに、からまった枝の名残がゆさゆさと揺れている。
少年は雲に、手を振り返した。

雲は、青い空をどこまでも昇って行き、やがてひつじ雲の群れに加わった。
そして、若木の枝葉をなびかせて風に乗り、空を西へ西へと流れていった。

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