気まぐれ流れ星二次小説

~前回までのあらすじ~

『スマッシュブラザーズ』に選ばれ、それぞれの思いを抱いて輝く扉をくぐったファイター達。
しかし、彼らは目的地とは異なる灰色の世界に連れてこられ、得体の知れない人形の軍勢によって1人、また1人と捕らえられていく。
そんな中、プロロ島の風の勇者リンク(トゥーンリンク)と、タツマイリ村の少年リュカが出会う。
偶然が生み出した出会いは数々の困難に遭いながらも成長していき、ここに11人のファイターが集う。

真の決着をつけるため、彼らは全ての首謀者タブーを撃破せんとする。
しかし、彼が潜むのは亜空間。通常の存在はおろかファイターであっても長くは保たないという異質な空間であった。
したがって、タブーを倒したいのであればなるべく彼の近くに飛び込んでいく必要がある。
その門となるのが、これまでもずっと空に輝いていた月とも太陽ともつかない"天球"であることを突きとめた矢先、
ついに灰色の大地は粉々に砕け、移動手段であるマザーシップも補修箇所にこの世界の物質を使っていたことが仇となって立ち往生してしまう。
人形兵の出現、デュオンの再来……諦めず立ち向かおうとするファイター達の前に次々と障壁が立ち塞がる。
11人のファイターは持てる力の全てを尽くし、そしてその意思を少年達へと託す。だが――


リンクは叫び声を上げ、毛布をはね除けた。

何かから逃れようとしていたのか、何かに追いかけられていたのか、額にはひどく汗をかいていた。
寝具から半身だけ身を起こし、彼はほとんど無意識のままに片腕を上げて汗を拭う。
目を覚ましても混乱が収まることはなかった。額に当てた腕の下で彼は呆然とした表情を浮かべる。

そこにあったのは、落ち着いた色合いの木で作られた壁。生木の板を並べて防腐剤を塗っただけの素朴な壁面だ。
頭の後ろからは窓越しに日の光が差し込み、風に混じって海鳥の騒ぐ声が、そしてほのかに潮の香が届いてくる。
12の年になるまでずっと暮らしてきたプロロ島の家。彼はその一室に敷かれた自分の布団で目を覚ましたのだった。

叫んだ格好のまま口をぽかんと開けて、彼はしばらくそうしていた。
ふと、視界に入った服の袖に視線が行き、あることに気付いたリンクは目を丸くする。次の瞬間には慌ただしく音を立てて立ち上がっていた。
地味な藍染めの胴衣に、黄色のズボン。彼は上着の裾を引っ張って、そこに染め抜かれたエビの絵をじっと見つめる。
それは彼の普段着だった。こんな柄の服、子供っぽくて着られないやと常日頃思っていたというのに。

そこで、リンクは自分の背中がやけに軽いことに気がついた。
もちろん寝ていたのだから背負っていたものはどこかに置いたのだろう。
だが、布団の周りを見渡してみてもそれらしいものはなく、部屋は3人分の毛布を並べたところでほぼ一杯になっていた。

それでも未練がましく毛布をひっくり返し、床板までめくりそうな勢いで探し続けていたリンクの背中に、不意に声が掛けられた。

「リンクや、どうしたんだい? 朝からそんなに騒いで……」

扉のない戸口から、おばあちゃんが顔をのぞかせていた。
心配そうに丸顔をかしげるおばあちゃんに向けてリンクは真っ先にこう尋ねる。

「あの服は?!」

血相を変えて言う孫の様子に、おばあちゃんは少し気圧されてしまったようだ。

「あの服って、どの服だい?」

「ほら、あの緑の服! さっきまで着てたろ?」

「緑の……? あぁ、勇者の衣のことかい?」

やっと彼が何で大騒ぎしていたのかが分かって、おばあちゃんは合点がいったように笑顔を見せた。
しかし、続いて返ってきた答えはリンクの期待していた言葉とはほど遠いものだった。

「あれは誕生日の男の子が着るものだよ。お前の誕生日はもう過ぎたじゃないか。
ふふふ。よほどあの服が気に入ったんだねぇ」

腰の後ろに組んだ手を乗せ、愉快そうに笑う。

それを前にして、リンクは何を言うことも出来ず困惑した顔で立っていた。
だんだんと自信が無くなりつつあったのだ。
ついさっきまであの緑の服を着て戦っていたような気がするのだが、何のために何と戦っていたのかがはっきりとしない。
確か、誰かに招待されてどこかに行こうとしていたはずだ。
だとすると、まだ自分は招待状をもらって家で待っている段階だったのだろうか。

まだ何かが引っ掛かっていたが、何故だかそれを明らかにすると嫌なことが起こるような予感がしていた。
リンクはそこから無理矢理目を背け、こう言う。

「ばあちゃん。おれ、あの服が無いと困るんだよ。
あれ着てかないと勇者っぽくないだろ? それに剣も盾も、どこにやっちゃったんだよ」

しかし、おばあちゃんはきょとんとこちらの顔を見上げるだけだった。

「リンク、いったいどこに行くつもりなんだい?」

「えっ、そりゃあ……」

答えようとして、リンクはそのまま固まってしまった。

背筋に嫌な感触が走る。
思い出せない。言葉が出てこない。
衝動だけはあるのに、その向ける矛先が分からないのはひどく気分が悪かった。

まるで自分が自分でなくなってしまうような言いしれぬ不安に駆られて、
彼は心ここにあらずといった足取りでおばあちゃんの横を通り抜け、寝室を出る。

居間まで出てきたところで彼ははたと足を止めた。

「そうだ、テトラは?」

不意に彼女のことを思い出し、振り返ってリンクはそう尋ねた。
その名前が出せたことでいくらか気分もましになった。
まさか勇者の一式と共に、彼女のことまで見失ってしまったんじゃないだろうかと心配になったのだ。
まだ自分には覚えていることがある。残されていたものがある。

だが、おばあちゃんの反応はいやにあっさりとしていた。

「テトラ……?
島にそんな子いたかねぇ。アリル、知っているかい?」

いつの間にか、その横には妹が立っていた。
いつもと違うリンクの様子に怪訝そうな顔をしており、おばあちゃんの後ろに隠れるようにしてこちらを見ている。
アリルは短いお下げにした頭を横に振り、こう言った。

「知らなーい。
……ねぇ、にいちゃん。それ女の子じゃないよね?」

何を警戒しているのかアリルは口をへの字にしている。

「どーいう意味だよそれ。
ていうか、なんで忘れてるんだよ。ばあちゃんもアリルも。
ほら、あの海賊船の女の子だって。おれと一緒に島に帰ってきたじゃんか」

リンクは手を振り回してそう力説したが、2人は揃って口をぽかんと開けるだけだった。

このままじゃらちが明かない。
自分の記憶が間違っていないことを証明するため、リンクは玄関に向かって駆け出した。
扉。その取っ手に手を掛け、ほとんど突き飛ばすような勢いで思いっきり押し開ける。

すぐに目に入ったのは抜けるほど青い空、そしてむくむくと湧いた入道雲。
家の前からなだらかに下っていく坂はやがて砂浜となり、その先にはすぐ海が広がっている。

だが、海に向かって突き出た桟橋にもやってあるのは木製の漁船が3隻ほど。
あの大きくていかつい海賊船の姿はどこにも無かった。

すっかりショックと失望に打ちのめされ、リンクは中途半端に敷居を跨ぎかけたところで立ち止まっていた。

後ろから声が掛けられる。おばあちゃんと妹が心配してリンクの名前を呼んでいる。
彼は振り返り、ほとんど懇願するような調子で言った。

「なぁ……『覚えてる』って言ってくれよ!」

彼の表情に不安と焦燥が表れはじめる。

「12才の誕生日に、おれはテトラが空から落っこちたのを見て山のてっぺんに向かった。アリル、お前が貸してくれた望遠鏡でそれを見たんだ。
お前は吊り橋まで迎えに来てくれただろ。そしたらそのバケモノみたいにでっかい鳥がやって来て、お前を掴んで飛んでいっちゃったんだぞ。
ばあちゃん、その時上に飾ってあった盾を隠そうとしたろ? でも、おれはテトラに頼んで魔獣島まで連れてってもらって――」

そこまでがむしゃらに並べ立てたところで、リンクは口をつぐんだ。
おばあちゃんがこちらにやって来て、彼の額に手を当てたのだ。

「リンクや。熱でもあるのかい?」

「違うって……!」

思わず手で払いのけ、そこでリンクはおばあちゃんの表情に気がついた。
そこにあるものを見て取り、彼ははっと我に返る。

気まずい沈黙の後、リンクはきびすを返して駆け出した。家族に背を向け、さんさんと陽光の降り注ぐ外へ。

プロロ島はそれほど広い島ではない。
家を出た勢いも冷めやらぬまま海岸を巡り、橋を渡った先の双子島までくまなく見て回ったリンクはとうとう認めざるを得なくなってしまった。
テトラは、この島にはいない。そして島の誰も、"風の勇者"のことを覚えていない。

高いはしごを登り切った先にある見張り台、茅葺きの屋根の下でリンクはあぐらをかいて座り込んでいた。
塩気を含んだ風が彼の前髪を騒がし、彼の視線の先で海は白波を立てて力強くうねり続けていた。
だが、リンクの目は群れ飛ぶ鳥も波に揺れる漁船も、そのどれをも見ていなかった。彼は1人きりでそこにいた。

まさか、あの誕生日の出来事さえ忘れられてしまったとは。
どこに行っても勇者様と呼ばれ、見知った人々から今までと違う目で見られることには確かに居心地の悪さもあったが、
こうして実際に呼ばれなくなってしまうと何故だか物足りないような淋しいような感じがした。

「でも、なんでだ?」

彼は声に出して、不満げに呟いた。
おかしくなってしまったのは島のみんななのか、それとも自分なのか。
前者だとすれば、自分はそれこそ勇者としてみんなを助けなくてはならない。記憶を奪った犯人を見つけて元に戻させるのだ。

けれども後者だとすれば?
リンクは首を横に振る。どうしたって、自分がおかしくなったとは思えない。
これほど鮮明に覚えているのに、あれが全部夢の中の出来事だったなんて信じられない。
でも、自分の手元にはあれだけ苦労して集めた数々の装備も無く、あんなに大きな怪鳥にさらわれたはずのアリルもそのことをさっぱり覚えていない。
思いつく限りの拠り所を全て失ってしまった彼には、自分の正気を裏付ける証拠となるものは何も残されていなかった。

リンクは潮風に吹かれながら、たった一つ残された証である自分の記憶をためつすがめつひっくり返していた。

確実に覚えているところから時を進め、思い出せる限り最近の出来事へ。
自分の名にもまつわる古くからの因縁を断ち切って、テトラと共にこの島に戻ってきた日。
あのとき島の誰が迎えに来てくれたか、どんな顔をして祝ってくれたのかもはっきりと覚えている。
誰が何を言ったかまでは流石に思い出せない、テトラを見て「大したもんだ」と冷やかすように肩を小突いてきた人がいた気がする。

自分が隅々までその記憶を覚えていることを再確認し、心の中のもやもやを解こうとするリンク。
彼の思考はやがて、家の前まで出てきて迎えてくれたおばあちゃんが差し出した、一通の封筒のところまで辿り着く。

そこまで思い出したところで、彼の脳裏に微かな光が走った。
がばっと立ち上がった彼の目の前に、一続きの漠然とした光景が広がっていく。

白い扉。輝く波と砂浜のあわいに浮かぶ姿。
打ち寄せては引いていく白波、それよりもはるかに清らかな輝きを持つ戸板。
近づいていくとそれは独りでに開き、まばゆく光をあふれさせた。
開け放たれた光の向こう側に飛び込んで、自分は――

それは一秒にも満たない白昼の幻であったが、あまりに強い衝撃を伴っていたために、彼は一瞬自分がどこにいるのか分からなくなってしまった。
呆然と歩を進め、見張り台の欄干に倒れかかる。前に出した手が手すりにぶつかり、彼はほぼ反射的にそれを掴んでいた。

「そうだ……そうだよ!」

ぱっと身を翻し、リンクははしごへと駆け戻っていった。
もどかしくて最後の十数段は飛ばして一気に下まで飛び降り、桟橋に靴音を響かせて島へと走っていく。
あの手紙は手元から消えていたけど、その文言はほとんど一字一句に至るまで覚えていた。それほど楽しみにして毎日読んでいたのだ。
その記憶にも不自然な虫食い穴は開いていたが『プロロ島の西海岸』という言葉は残っていた。招待主はそこに扉を開けると言っていた。

リンクは、まだ西海岸までは足を向けていなかった。
西海岸には地理上の問題で港が無い。林をぬけた先に狭い砂浜があるだけで船を停めるには立地が良くないのだ。
さっきまでは海賊船を探していたから、それを知っていて立ち寄らなかった。

家の建ち並ぶ辺りを通り抜け、林の中に砂利で引かれた道を駆けていく。
足音に驚いた小鳥があちこちで飛び立ち、野ブタの鋭い鳴き声が茂みの方から聞こえたが、リンクは遠慮することなく全速力で走り続けた。

必死に走る彼の先で木々がまばらになったかと思うと、一気に視界が開けた。

「……」

息を弾ませて、リンクは立ち止まった。
穏やかな海。白波がさらさらと砂浜を洗っていき、小さなカニがそのあとに足跡を残して歩いていく。
海岸には誰もいなかった。呆然と立ち尽くすリンクの前には、ただ海と青空と白い砂浜だけが広がっていた。

リンクは唖然とした表情のまま、ゆっくりと片手を顔の横に持ってきた。
そして思い切り、自分の耳をつねる。だが、目の前の景色が消えることはなかった。

「にいちゃーん、お昼ごはんできたって!」

くぐもった向こう側から、妹の呼ぶ声がした。

「あれ、にいちゃん? ……わぁっ! 何してんのさ、にいちゃんてば!」

ざくざくという足音が近づいてきて、リンクは肩をつかまれて引き起こされた。
盛大な水しぶきを上げて、そのまま彼は砂浜に仰向けに倒れ込む。

「潮だまりに顔なんかつっこんで、どうしちゃったのさ。カニに鼻はさまれても知らないよ!」

両手を腰に当てて、いっぱしの島の女みたいな顔をして注意するアリル。
逆さまになった妹の顔も見えていない様子で、リンクはせわしなく息をつきながら魂の抜けたような顔をして空を見上げていた。

自分はきっと、夢を見ている。
これが夢ならば、何か死にそうな思いをすれば起きるのではないか。そう考えたのだ。
でも、水に顔を突っこんでも苦しいだけだった。どんなに我慢しても目が覚めることはなかったが、苦しさだけは本物だった。

「おっかしーなぁ……」

ぼうっとしてそう呟いたリンクに、

「おかしいのはにいちゃんの方だよ!」

アリルはまだちょっと口を尖らせてそう返した。

「おぉっ、どうしたボウズ。高波にでも引っ掛けられたかぁ?」

家への帰り道で仕事帰りの漁師集団にそう茶化されながら、リンクは玄関の扉を開けた。

少し心配だったのだが、おばあちゃんはもうさっきのことを気にしていない様子だった。
リンクのずぶぬれの頭を見た時はさすがに驚いていたけれど、何も言わずにすぐ家の奥からタオルを持ってきてくれた。

藁のにおいがするそれを頭に被りながら、リンクは敷物にあぐらをかいていた。
目の前に出された料理は堅焼きのパンと具だくさんの汁物。この時期一番おいしい魚が使われている。
においも、そして味も記憶にあるおばあちゃんの手料理と全く同じだった。
半ば上の空でさじを口に運びつつも、リンクはこう思っていた。こういうところは忘れてないんだな、と。

これまでのことで意気消沈してしまったリンクだったが、昼ご飯はしっかりと平らげたのだった。

数刻後、リンクは再び自分の布団に横になっていた。

「今日は少し寝ていた方が良いんじゃないかい?」
おばあちゃんの心遣いに、今度は反抗することもなく頷いたのだ。

ほぼ半日駆け回り、自分の人生で未だかつて無いほどに頭を酷使してどっと疲れが来ていたが、目を閉じても眠気は一向にやってこなかった。
それどころか、どこからやってくるのか分からない焦りがリンクをせっつき、眠らせてくれないのだ。

組んだ腕を頭の後ろに回し、リンクは天井を睨みつけていた。
扉を潜り抜けた先のことがどうしても思い出せない。彼は早々に寝ることを諦め、それを思い出そうと先程から苦労していた。

整理してみよう。まず、自分には違和感がある。
島のみんなと自分の記憶とが食い違っており、しかも自分だけが持っている思い出があまりにも多すぎる。
中でも、自分の誕生日の日に起こった出来事を発端にして繰り広げられた、天地を揺るがすほどの大冒険。
あれも起こらなかったことになっている。でも、リンクにはまざまざと思い描くことができるのだ。
アリルがジークロックにさらわれた瞬間も、赤獅子の王と共に大海原を駆け巡った日々も、そしてテトラと一緒に力を合わせて平和を取り戻したことも。

だが、その冒険はひとまずの決着を得た。
焦りはそこからやってくるのではない。その先、『扉』を抜けた先から何かがリンクに語りかけてくるのだ。
白く輝く扉のイメージを頭の真ん中に据えてありったけの意思を込めて睨みつけ、必死にそれを思い出そうとしていた彼だったが、
ついに頭をかきむしり、苛立った声を上げて大の字になった。

「このままじゃホントにおかしくなっちまうよ……」

嘆息し天井を見上げる。
窓の外、空のどこか高いところでは海鳥が鳴き交わし、潮風が島の木々をしならせていた。

しばらく何事か考えていたリンクは毛布を払いのけ、立ち上がった。

「ばあちゃん」

居間に顔を出すと、ちょうどおばあちゃんは洗い場で洗ってきた皿を戸棚に戻しているところだった。

「おや、どうしたんだい?」

そう言いながら、服をほろって踏み台から降りてくる。
リンクは心の底で後ろめたさを感じながら、おばあちゃんに向けて作り笑いを見せた。

「もう外に出ても良いだろ? おれ、だいぶ落ち着いたからさ。
……たぶん、悪い夢でも見てたんだよ」

もちろんそれは外に出るための口実だった。
どこかに用事があるわけでもないが、じっとしているのは自分の性分に合わない。
それに、外の風に吹かれ、ぶらぶらと歩いていれば考えもまとまるかもしれない。そう期待したのだ。

一番納得のいく説明は、自分は今まさに夢を見ているというものだった。
そうだとすれば島中のみんながあの大事件を覚えていないのも納得がいく。そういう筋書の夢なのだ。
だが、それにしては自分の頭がはっきりしすぎているような気がする。
髪を逆なでていく風の涼しさも、さっき食べた料理の美味しさも本物としか言いようがない。
一体どっちが本当で、どっちが夢なのだろうか。

そう考えながら見つめる足元が砂浜に差し掛かったところで、リンクは後ろから名前を呼ばれた。
振り返ると、アブリおじさんのところの兄弟、ジョエルとヂルがこちらに向けて大きく手を振っていた。

「リンクの兄ちゃん! ちょうど良い枝を見つけたんだ。チャンバラしようよ」

そう言ってジョエルがその手に持つ白茶けた流木を持ち上げて見せる。
長さは彼の腕をめいっぱい伸ばしたくらいはあるだろうか。いつもより丈夫そうな得物を見つけて彼は嬉しそうな顔をしていた。

「にーちゃんたら、ぼくじゃ勝負にならないって言うんだよ」

兄の横でふくれっ面をしてみせるヂル。

リンクは少し考えた後、2人の誘いに乗ることにした。
答えのでないことを考え続けても疲れるだけだ。今の自分に必要なのは気分転換だろう。

だが、思ったほどの効果は上げられなかった。
さっきのヂルの言葉を借りれば、勝負にならなかったのだ。
ジョエルの動きはあまりにも分かりやすく、何も考えなくても避けられるくらいだった。
彼の方が年下とはいえ、これではまるで棒きれを振り回す赤ん坊を相手にしているようだ。

何回か組み手をしたところで、ジョエルは自分から降参してしまった。
リンクとしてはそれほど動き回っていた感覚も無かったが、ジョエルはついていくのが精一杯だったらしい。
流木を砂浜に刺し、両膝に手をついて息を弾ませつつリンクを見上げた。

「ふーっ、やっぱり敵わないなぁ。すっかり目が回っちゃったよ」

横で観戦していたヂルも目をキラキラと輝かせてこう言う。

「すっごいや! まるで剣のたつじんだね! いつの間にそんなにうまくなったの?」

「いつって……」

リンクは目を瞬かせる。どう答えるべきなのだろうか。
迷っている横で、ジョエルが代わりにこう言った。

「当たり前だろー? なんたってリンクの兄ちゃんは勇者になったんだぞ」

思わずはっとして、リンクはジョエルの横顔を見る。しかし彼の言葉には続きがあった。

「12になったからあの服を着たんだ。ヂルも見ただろ?」

「じゃあぼくも勇者の服着たら強くなれるんだね! 早く大きくなりたいなー!」

賑やかに騒いでいる兄弟の横で、リンクは複雑な顔をして黙っていた。
自分は"本当に"勇者になったんだという言葉がのど元まで出掛かっていたが、そうすれば怪訝そうな顔を返されるのがオチだ。
これが夢なのだとしたら早く覚めてほしかった。

目が覚める代わりに、リンクはジョエルのこの言葉で現実に引き戻される。

「でも、本当にかっこよかったよ。今ならきっと、あの赤シャチのじいちゃんにも勝てるね」

"赤シャチのじいちゃん"とはこの島に住んでいる漁師のことだ。
すっかり髭も髪も白くなって、日に焼けた頭のてっぺんはつるつるになってしまっているが、まだその目には力がある。
剣の心得もあり、自宅の一階は道場のように整えられていた。

「赤シャチのじいちゃんはムリだよ、にーちゃん。こてんぱんにやられちゃうって」

ヂルがそう返すのも耳に入らず、リンクは持っていた流木を砂地に刺すとこう言った。

「ごめん。おれ、用事思い出したわ!」

そして2人の返事も待たずに駆け出していった。
彼の向かう先には、海に面して建てられた二階建ての家屋があった。

それからしばらくして。赤シャチが居を構える建屋の居間には、日焼けした老人と向かい合って座るリンクの姿があった。
相談があると聞いた赤シャチは土俵の上に丸ござを持ってきてまず座るように言い、それからはずっと黙ってリンクの話を聞いてくれた。

テトラや風の勇者の話はしなかった。それに対する答えはもう島のみんなから、こっちが惨めになるほど十分聞かされている。
リンクが打ち明けたのは、自分の心を突っついてやまない衝動。それに関することだった。

招待状や白い扉の話を、赤シャチはリンクの見た夢として受け取ったようだった。
話し終えたリンクを見てうーむと唸った後、彼は腕を組んでこう尋ねた。

「すると、おぬしは誰かに呼ばれていると……そう感じているのじゃな?
この島ではないどこかへ行かねばならぬと」

「行かなきゃなんないっていうより、もう行った後のような気がするんだ」

正座した足が痺れてきて、リンクは体重を掛ける足を変えようとしつつそう答える。

「そこでやらなきゃなんないことがまだ終わってない。戻らなきゃいけない。それも、今すぐに。
……なのに、それが何なのか思い出せないんだ。それが苦しくって」

それを聞き、赤シャチはもう一度呻吟した。
腕を組んだまま目を閉じ、彼はしばらく黙りこくってしまった。
もしかして眠ってしまったのかとリンクが心配し、のぞき込んだ矢先に赤シャチは目を見開いた。

「リンク」

改まった声に、思わず少年は背筋を正した。
元より背筋を伸ばして座っている赤シャチは、そんなリンクを真っ直ぐに見おろしてこう言った。

「男の子というものはな、おぬしほどの年になると誰もが同じ気持ちを抱くものじゃ。
身の回りの全てのものがつまらなく感じ、何もかもを見飽きたように思い始める。
水平線の向こうを見てその彼方にあるものを望み、すぐにでも漕ぎ出していきたいような気持ちに駆られる」

「でも、そういうんじゃ――」

焦れったくなって口を挟むが、たちまち鋭い声が飛んできた。

「これ! 人の話は最後まで聞くものじゃ」

驚いて首を引っ込めるリンク。赤シャチは再び先程の調子に戻って言葉を継いでいった。

「だが、リンクよ。おぬしの場合は背負っているものが他の子供とは違う。
おぬしの家族はおばあさんと妹、その2人だ。彼女もいずれは年に勝てなくなるだろう……。
そうなればリンク。おぬしが家族を守ってやらねばならぬ」

「それは、分かってるよ。でも……」

今度はちゃんと相手の話が終わったことを確かめてから、リンクはそう言った。
日も傾き薄暗くなってきた室内に視線を巡らせた彼は、壁に銛が掛けられていることに気付く。
その刃の輝きを見た彼の目に、ふと閃くものがあった。

「……そうだ! 赤シャチのじいちゃん、おれと手合わせしてくれよ。
そうすりゃ信じてくれるだろ? 思い出せないけど、おれがどこかで戦ってたってことが!」

思わず立ち上がり、彼は握り拳を自分の胸に当ててそう言っていた。
しかし、赤シャチはしばらくそんな彼を見上げた後……静かに首を横に振る。

「今はその時ではない。おぬしは確かに12を超えたが、それでもまだ子供じゃ。
一人前に家族を守れるようになったら、ワシが相手をしてやろう」

そして、彼は窓の方に視線を向けた。

「おや。ずいぶん話し込んでしまったようじゃ」

見ると、群青色に染まりつつある海原を輝かせ、真っ赤な夕日が水平線の彼方に沈もうとしていた。

夕食も申し分のない美味しさだった。
どんなに腕の立つ料理人が作った料理でも、おばあちゃんの作るご飯には敵わない。
それは、小さい頃から親しんできた味付けや食べ慣れた島の食材で作られているせいかもしれない。
だが、それこそが自分の心を大きく震わせるのだ。

目が覚めてからあれだけ悩みに悩んだものの、こんな料理が毎日食べられるなら無理に夢を覚まさなくても良いんじゃないか。
そんな考えさえ、ふと頭によぎる。

――でも、こう感じるってことはやっぱりおかしいよな。

眉を寄せてリンクは心の中で呟いた。
だって、生まれてからずっとこの島で暮らしてきたのなら、こんなにも強く家族の手料理を懐かしむだろうか?

家族の前では"正気に戻った"ことになっているので、リンクは2人の会話を聞くだけにしていた。
下手に喋ればすぐにぼろが出て、またさっきのように心配されかねない。アリルからあんな目を向けられるのはもう御免だった。

妹が今日望遠鏡で見たものを目を輝かせて語るのを、リンクは辛抱強く聞き続ける。
それは寝室に戻っても続き、やがて話し声があくび混じりになって静かな寝息になるまで、彼は耳を傾けていた。

月の光が差し込む寝室には、2人分の寝息が微かに響いていた。
リンクはその天井の辺りを眺め、ただ1人眠れずにいた。

――夢の中で寝たらどうなるんだろうな……

それで目が覚めてくれるのなら幸いだが、どれほど時間が経とうと彼はいっこうに眠くならなかった。

天井の木目を見るともなしに見つつ、眠気が来るのを待つ。
数を一から数え、途中でどこまで数えたか分からなくなって止める。
外の物音に意識を向け、延々と繰り返される潮騒と微風の中に少しでも異変が起きないだろうかと耳を澄ます。
どこかに行ってしまったテトラのことを思い、彼女がいたなら自分をひっぱたいてでも起こしてくれただろうにと、どうにもならないことを考える。

もし、このまま目が覚めなかったら?
ふと頭にそんな言葉がよぎり、視線が天井の一点を見つめてぴたりと止まる。

そうすれば自分はずっと、ありふれた島の子供として生きていかねばならなくなる。
もう少し大きくなれば漁師として海に出られるようになるだろうが、そうしたところで成果があるとも思えない。
船を漕いで思い出の跡地を巡っても、プロロ島であったこととたいして変わりのない反応しか得られないだろう。
この調子では竜の島のメドリも、森の島のマコレも自分のことを知っているとは思えない。

風の勇者としての記憶を自分の中に閉じ込めて、勇者のいなかった世界でありきたりな一生を終える。

その様を想像しかけて、リンクはぎゅっと目をつぶってそれを止めた。
だが、彼の頬をなでていく夜風の冷たさはこれが夢などではないことを告げていた。

風に木々がざわめき、そこに波の音が加わる。
いつもはそれが子守歌となるのだが、今のリンクにとっては別の意味をもって聞こえていた。

閉ざされた白い扉、その向こうから彼を呼び求める声。ここに来てくれと頼み込む声。
それは助けを求める声とは違っていた。どちらかと言えば、一緒に来て戦ってくれと言っているようにも聞こえる。
でも、それが誰の声なのかが分からない。顔はおろか声音さえもぼやけてしまっており、そぎ落とされやせ細った空っぽの輪郭しか残っていない。
立ち上がらなくては、行かなくては。そんな衝動ばかりが出口の無い海を駆け巡り、延々と漕がされた漕ぎ手にも限界が来ようとしていた。

リンクはいつまで経っても答えのでない考え事に疲れて目を開け、何とは無しに風が吹いてくる方角を見上げる。

そこにあったのは開け放たれた窓。
夜空には雲一つ無く、ちょうどまん丸に満ちた月がぽっかりと浮かんでいた。

黒い空に輝く、お皿のような白い光。

それを見ていた彼の表情に、何かがよぎった。

自分はこの光景を、どこかで見たことがある。

裾を翻し素早く駆け去ろうとする記憶の欠片。彼は必死に手を伸ばし、それを掴む。
その途端、彼の目の前に光があふれた。

色も音も一緒くたになって爆発し、鮮烈な記憶がこちらを圧倒するような勢いでなだれ込んでくる。
様々な感情を含んだ眼差し、強い懐かしさを覚える見知らぬ顔。そして、今までに無いほどはっきりとした声。

 『もうちょっとましな運転できないのかよ!』
   『構うな! 早く行け!』
『いや、まだ方法はある』
  『君達だけでも送り届けるから』
 『……危ない!』

最後の声に弾かれるようにして、リンクは飛び起きた。

呆然とした顔を壁に向け、浅く早い呼吸を繰り返す。

今や、彼は全てを思い出していた。
そして、自分のやるべきことが何であったのかも。

頭の中は一気にあふれ出した無数の記憶と思考でごちゃごちゃに渦巻いていたが、
朝この部屋で目が覚めてからずっと心の中に掛かっていた霧は嘘のように晴れ、何もかもが見通せるような感覚さえあった。

リンクは心臓がどくどくいっているのを意識の端で感じながら、茫とした様子で頬に手をやった。
手はいやに冷たかった。自分の家の安全な場所にいながら、同時にまだあの混乱した戦いの中にいるように思えて落ち着かなかった。
終焉の色に満ちた空。全てを吸収しふくらみ続ける白い輝き。放り出され、空を掴もうとする手。

それから、はっと気がついて隣の2人の様子を見る。
あれだけ衝撃を受けたのだから叫んでいてもおかしくはなかったのだが、彼らが起きた気配はなかった。
おばあちゃんもアリルも、至って平和な寝顔を見せて眠っている。

ようやく動悸が収まってきて、リンクはいくらか悲しみの混じった表情で2人の顔を見つめた。
急がなくてはならないのは十分すぎるくらいに分かっていた。
それでも、ここを後にする前に大切な家族に言っておかなければならないことがあった。

「ばあちゃん、アリル。
……ごめん。やっぱりおれ、行ってくるよ」


  Open Door! Track52 『Inner Universe』


Tuning

深層から囁きかける声

リュカは、自宅へと続く上り坂の途中に立っていることに気付いた。

少年は顔を上げ、辺りを不思議そうに見回す。
そんな彼の周りを一陣の風が通り過ぎていき、遅れて遠くから木々の葉ずれの音が耳に届いてきた。
日差しは初夏の暑さ。風はまだ涼しいが、上から照りつける太陽は春の穏やかさを脱ぎ捨てて少しずつ本気を出そうとしている。

空を見上げる少年の視線はやがて下げられていき、岬の上に立つ自分の家へと向けられた。

木材の色を生かした二階建ての一軒家。
敷地の崖に面したところは全て柵で囲われていて、近くに他の家も無いからその中は全部自分の家の庭になっている。
見慣れた風景だったが、リュカはふと怪訝そうに眉をひそめた。どこかが彼の記憶と違っているように思えたのだ。
最後に見た家よりも真新しく、大げさに言うなら、壁に使われた材木の一つ一つが日の光に照らされてまるで輝いているように見える。

海の方から風が吹き上げ、彼の後ろから回り込んで行く手の草花をさわさわとそよがせていった。
その風にきっかけを得たようにして、リュカは坂道を登りはじめた。

見つめる先でだんだんと、我が家が近づいてくる。
庭の花々、花壇に植えられているものも草むらに咲いているものも、どれもが生き生きとしたきれいな花を咲かせて風に揺られていた。
物干し竿には真っ白なシーツが掛けられており、ゆったりと海原を思わせる動きではためいている。
家の隣にある羊の小さな畜舎もそのままだった。焼け焦げ一つ残されていない。雷が落ちてくるようになる前の、あの平和な頃みたいに。

そこまで昇ったところであることに気がつき、リュカは少し目を丸くして立ち止まった。
赤い屋根の犬小屋に、居眠りするボニーの姿があった。しかし彼はあのコーバ近くの公園に置いてきたはずだ。

「ボニー? どうしてここに……」

思わずそうリュカが口にすると、それを聞きつけたかのように茶色の犬は身を起こした。

「ワン!」

一声吠え、嬉しそうに尻尾を振る。
そして犬小屋を出てくると、一直線にこちらへ向かって走ってきた。

庭を突っ切って、笑うように舌を垂らして駆けてくるボニー。
でも彼は大型犬だから、受けとめるなら相当の心の準備をしなくてはならない。
リュカは混乱を残しつつも少し腰を低くし、後ろに転んでも良いような態勢を取って腕を広げた。

ボニーはその腕の中に飛び込んできて、そして

衝撃さえ無かった。
身構えた姿勢のまま固まってしまったリュカの後ろで、どさりと誰かが転ぶ音がした。
笑い声に続いて、こんな声が上がった。

「こらこら、よせよボニー。あとでちゃんと遊んでやるからさ」

聞き慣れた、それでいて耳に馴染まない声。

リュカは言い知れぬ悪寒に腕が粟立つのを感じつつ、ゆっくりと後ろを振り向く。

そこにいたのは、尻餅をついてボニーにじゃれつかれ、笑っている少年。
青と黄色の縞シャツに、逆立つような癖のついた明るいオレンジ色の髪。
自分と鏡写しのようでありながら、あちこちに少しだけやんちゃな雰囲気を付け足したような顔立ち。

双子の兄、クラウス。

正確に言えば、兄があれから3年の時を経たのならこんな格好に成長しているであろう姿だった。
母の仇を討つために、ろくな武器も身を守るものも持たずたった1人でドラゴ台地に向かっていったあの時から。

「クラウス」

今度は家の方から大人の声が聞こえてきた。それが父の声であることに気がつくまで数秒かかった。
あんな穏やかな声、いったいいつぶりに聞いただろう。
それを聞いてリュカの前で兄はぱっと立ち上がり、笑顔を見せて返事をした。
彼の視線は明らかに、こちらを通り抜けてその向こう側に向けられていた。

そして、兄は当然のようにリュカにぶつかっていく。
驚いて思わず腕を上げ、後ずさって目をつぶったリュカはしばらくその姿勢のままでいた。

ゆっくりと腕を降ろし、そして呆然として自分の両手を見つめる。
どこにも変わったところはなく、幽霊のように透けているわけでもない。
夏の日差しがリュカの上にも降り注ぎ、足元にはちゃんと一人分の影ができている。

後ろで兄の声が言った。

「お母さん、今日のお昼ご飯は?」

その言葉に、リュカははっと目を見開く。
胸が急に苦しくなったが、中途半端に開けられた口は一向に息を吸い込もうとしなかった。
耳を塞ごうにも、二つの腕は凍り付いたように動かなくなっていた。

懐かしい声が、自分の命を引き替えにしてでももう一度聞きたいと願っていた声が、優しい笑い声をあげる。

「ふふ。みんなが大好きなふわふわオムレツですよ」

大きく息を吸い、リュカは振り返る。
彼の顔は、今にも泣き出しそうな様子に歪められていた。
叫ぼうとした。大声でその言葉を呼ぼうとした。でも、口からは何の言葉も出てこなかった。
声が喉の奥にくっついたようになってしまって、胸の苦しさを一層増しただけだった。

見つめる先でその人は家の中へと兄を招き入れ、そして扉を閉めてしまった。
リュカの心の声は届かなかった。
だが、彼の目にはしっかりと焼き付いていた。

濃い桃色のワンピースに、肩を超える長さまで真っ直ぐに伸ばされた茶色の髪の毛。
あの日あの森の中で永遠に喪われてしまったはずの母が、陽だまりの中、記憶に残るそのままの姿であの場所に立っていた。
家の扉。開け放たれたその横、ドアノブに手を添えて。

「おかあ、さん……」

やっとのことでそれだけを言い、リュカは膝からくずおれた。

手をついた先で、草原がぐにゃりと歪んで色を変えた。

渋みのある木の床。手に砂埃も感じられないほどきちんと掃除されている。
リュカが目を疑っていると、その耳に誰かの会話が聞こえてきた。

笑いさんざめく声。子供と2人の大人……いや、そう言ってしまってはあまりにも味気がない。
リュカの兄と両親の笑う声。食卓を囲み、会話に花を咲かせている。

顔を上げれば辛くなるだけだと分かっているのに、それでも彼は顔を上げようとする自分を止めることができなかった。
そこにあったものは耳で聞こえていたものとほとんど変わらない光景。しかし、あるものが欠けていた。
家族が座るテーブルには、椅子が用意されていなかったのだ。

お皿の上で美味しそうな湯気を立てているオムレツと、その上で明るく笑っている母と兄の顔。
無口な父までもが、帽子のつばの下で口元をほころばせていた。
そこから無理矢理に目をそらし、リュカは慌てて立ち上がると寝室の方を見る。
まさかベッドまでは片付けられていないだろう。なぜなら、家にあるのは一つで2人が眠れるような大きなベッドなのだ。
だがすぐに、彼はそちらに視線を向けたことを後悔することになった。

両親のベッドは記憶通り共用の一台だった。
しかしその奥に見える子供用のベッドは、明らかに1人分の細長い形をしていた。

そこにはから、双子の弟が入る余地など存在していなかった。

リュカの心の奥底で何かが、音を立てて砕け散った。
少年は顔を引きつらせ、首を横に振る。首を横に振りながら後ずさりはじめる。
3人の家族はそんな彼を笑うように団らんを続けていた。みんなが大好きな料理を囲んで、楽しそうに、笑顔を浮かべて。

「やめて……!」

今にも消え入りそうな声で言い、リュカは耳を塞ぐ。

押し付けた手の向こう側で強い風が沸き起こり、俯いて目をつぶった彼の髪や服を盛大に騒がせていった。

風の感触はいつの間にか、より多く複雑で、形を持った小さなものに変わっていた。
冷たく肌にしみ通る雨粒。湿気を含んでしんと静まりかえった夜の空気。

リュカは目を開け、そして顔を上げた。

家族の姿はどこにも無くなっていた。暖かなランプの照明も、温もりに満ちた木肌も消え去り、
自分を取り囲むのは黒こげになった木々、雨に濡れた草むら。辺りに満ちる焦げくさい臭いがここで起こったことを物語っていた。
腕をひさしにして見上げた夜空はどんよりと雲に覆われ、一面に暗く陰鬱な墨の色で塗りたくられていた。

たった1人取り残され、雨に打たれる少年。
シャツや髪の毛が濡らされていっても、彼は雨宿りをしようとする素振りも見せずに立ち続けた。
空を見上げるその顔には少し悲しげな表情が浮かんでいた。雨粒ばかりが、彼の頬を伝い流れていく。

どれほどの間そうしていただろう。
彼の頭上に、不思議な形の傘が差し掛けられた。

抽象的なシルエットを持つ虹色の翼。水色がかった青に輝く半透明の身体。
亜空間の主がその身をもって、ずぶぬれの少年のために傘となっていた。

しかし、それに対して相手が感謝の言葉を口にすることはなかった。
リュカが返した反応は、驚いたように目を見開き、そして強く睨みつけることだった。

「……君が、タブーなんだね」

内心で震えていることを悟られないよう、リュカは胸に力を込めて短くそう言った。
それを聞いた彼は、目も鼻もはっきりしないような顔を少し傾げさせた。

『タブー? 実に堅苦しい名前だな。
誰がつけたのか、その者達の顔がありありと目に浮かぶようだよ』

リュカは恐れを心の中に隠してそいつの顔を睨みつけたが、相手の心はまったく感じ取れなかった。
おそらく、これは実体ではないのだ。そしてそれは、リュカが今まで見せられてきたものも本物ではないことを意味していた。

「タブー。なんで、僕にあんなひどい幻を見せたんだ」

それを聞き、タブーはわずかに身を起こして面白がるような調子でこう言った。

『幻だと? あれを見せたのは私ではない。お前の心だ』

「僕の……?」

『そうだ。お前がこうであったならとどこかで望んでいること、私はそれを実体化させたに過ぎん』

それを最後まで聞き終わらないうちに、リュカは懸命に首を振って割り込むように叫ぶ。

「僕は、あんなこと望んじゃいない!」

『いいやお前は望んでいる。
永久に喪われてしまった安寧を、聞き分けのない幼子おさなごのように求め続けている。
兄の代わりに自分が行けば良かったのに、いっそ自分がいなくなれば良かったのにと、罪悪感から来る枷を引きずっている。
そして母親が死んでいなければと祈る、そんな馬鹿げた願いを持っている。だがお前には時を巻き戻せはしない!』

氷の楔のような言葉。心の奥底まで叩きつけるようにしてタブーは並べ立てていく。
呆然として言葉を失ったリュカの目の前に、青く発光する指が静かに突きつけられた。

『お前は心の底では分かっているのだ。
もはや自分には帰る場所もなく、迎えてくれる者もいないと。
だからこそ、お前の心はあのような幻を生み出したのだ』

低い声で告げられた言葉に、リュカはいつしか俯いていた。
項垂れさせたまま、しかしその首を横に振る。

「まだ、いる」

タブーは身を起こし小馬鹿にしたように首を傾げた。

『ほう? 誰だ。
父親か? だがあれはもうお前から関心を失ってしまっているではないか。
お前には目もくれようとせず、伴侶と息子の幻影を追い続けるだけ。父親はお前など要らないのだ。
それとも犬か。フン、確かにあれならお前を待っているだろうよ。
だが所詮お前は人間だ。人としての社会を捨てて犬と暮らすわけにはいくまい?』

少年は屹然と顔を上げた。

「違う!
……この村を守ってくれって、僕は頼まれたんだ!」

森の小径を抜けた先、そこにあるはずのタツマイリ村の方角を手で指し示し、リュカは強い口調でそう言った。

それはある日のことだった。兄が姿を消して少し経った頃、村に行商人がやってきた。

その頃のリュカはまだ心の中に大きな悲しみを引きずっていたのだが、それでも子供達の噂は耳に聞こえていた。
変な格好をした行商人が大人達にシアワセについて説いていること。彼がいかに"心を込めて"演説をしているのか、真似して笑いを取っている子もいた。
そんなに懸命にシアワセを勧める彼なのに、一緒に連れてきた芸達者な客引きの猿を陰ではこっぴどくいじめているのだと声をひそめて言う子もいた。

それを聞いた時、なぜだか嫌な予感がした。
怪しげなその余所者が、自分かあるいは村に良くないことを持ち込むんじゃないかという警戒の念が沸き起こったのだ。
それはもしかすると、立て続けにちかしい者を失って心がささくれ立っていたことから来たのかもしれない。
だがいずれにせよ、最終的にはその直感が役に立ったのだ。

夜。リュカは何か物音を聞いたような気がしてはっと目を覚ました。

父は夜も更けたというのにまた家を留守にしており、彼はこっそりと玄関から抜け出すことができた。
後ろ手にドアを閉めても気後れは感じなかった。父が上の空でいるのと同じくらい、彼も父に過度な期待をしなくなっていたのだ。

物音は勘違いではなかった。ドロドロと轟くような音が村の方から聞こえてくる。
坂を駆け下りて村の広場に出た彼が見たものは、テリの森方面に駆けていく豚の面を被った奇妙な連中と、何台もの戦車。
その一台には、いつものお愛想笑いが嘘のように恐ろしい顔をして怒鳴り散らし、号令をかける行商人の姿もあった。
おかしなことに、これほどまでに騒がしくしているのにも関わらず、辺りの家屋からは誰一人として出てくる気配はなかった。
明かりはついているのだが、住人が窓から顔をのぞかせる様子も無い。

それを認めたリュカの顔に一抹の諦めがよぎる。
みんなきっと、行商人が売りさばいた例の"シアワセのハコ"に浸りっきりになっているのだろう。
気持ちを割り切り、彼は行商人の言っていることに耳をそばだてる。

彼の声は、誰かを追えと言っているようであった。逃がすな、絶対に捕まえろと。
それを聞いたリュカは、その時の自分でも驚いたことではあったが、気がつくと森の方へと駆け出していた。

先回りし、少し寄り道して友達のちびっ子ドラゴを連れてきてリュカは森の奥から戻ってきた。
戦車の排気音を頼りに藪の間を縫って足音を忍ばせ、1人と1匹揃ってそっと顔をのぞかせる。

そこにいたのは、戦車に囲まれて逃げ場を失ったドロボーのウエスおじいさんと、見たことのないピンクの髪の青年――これは後で誤りであることが分かった。
そして、そんな2人の背後に隠れるようにして行商人のお猿さんが、見ているこちらも辛くなりそうなほど怯えた顔をしてぶるぶると震えていた。

村の老人1人に若者、そして小さな猿。追い詰められた彼らの姿を青ざめた月明かりが照らしている。
たったこれぽっちの顔ぶれに何台もの戦車が砲身を向けている様子は明らかに異様だった。
なぜだかは分からないが、行商人にとってあのお猿さんは何があっても手放したくないものであるらしい。

どちらに加担するか。リュカは最初から心に決めていた。

まず、ちびドラゴと共に姿を見せる。ブタ顔のマスク達と行商人は思わぬ乱入者に訝しげな顔を向けたものの、
こちらがたった2人だけであると分かると、一斉にヤジを飛ばし始めた。
しかし彼らのブーイングも、小馬鹿にしたような態度も、続いて森の茂みの奥から現れたものを見てあっという間に消え失せた。

夜の森に勇壮な足音を響かせ、緑色の鱗に守られた立派な体躯を現したのはドラゴの母親。
大きな顔の中、小さくきらきらと輝く目。眼下で凍り付いたように動けなくなった大人達を悠然と見おろし、そして彼女はおもむろに前へと踏み出す。

彼女が尻尾を振り回せば何人ものブタマスクが手足をばたつかせて空を飛び、噛みつく真似をするたびに慌てふためいた悲鳴を上げて駆け回った。
でも、ドラゴの方はこれでほんの少しも本気を出していないのだった。

ついに行商人一行はこけつまろびつ、ほうほうの体で逃げ出した。
ドラゴの親子は取り残された戦車をおもちゃにして遊び、満足したように悠々とした足取りで帰っていった。
彼らを見送ってリュカが振り返ると、意気揚々と拳を振り上げる若者に、今度は嬉しさで泣きそうな顔をしているお猿さん、
そして口をぽかんと開けたウエスおじいさんがそこにいた。

その後、ウエスおじいさんが教えてくれたのはドロボー弟子であるダスターさんの失踪。
何かとんでもなく重要なものを持ったままいなくなってしまった彼を探さなくてはならないのだという。

それを聞いた時、自分の顔に行きたそうな気持ちが出てしまったのだろう。
ウエスおじいさんは首を横に振り、リュカには残って村を守るようにと言った。
代わりにその任務を引き受けたのはピンクの髪をした『姫』。彼女はお猿さんを引き連れて、村を後にしてしまった。

リュカはその時、ろくに別れの挨拶もできず俯き加減に足元を見ていた。
自分に村が守れるとは思えない。きっと、ウエスさんもそれを分かっていて、同行を断る口実としてそう言っただけなのだ。
村に染みついたこの記憶、この閉塞感からは永遠に逃れることができないのだろうかと思うと、悲しくなってきてしまった。

しかし、そんな彼の前でふと振り返る気配があって、姫がこちらを向く。
男の子のように短く切られ、逆立てられたピンクの髪。男の子よりも気の強そうな目。
それでも彼女が振り向いた時、言い知れぬ感情に胸がきゅっと締め付けられた。

彼女が掛けてくれたその言葉は、小さくとも消えることのない炎となり、今でもリュカの心を照らし続けている。

『リュカ。なんだかお前とはまた会えそうな気がする。しっかりやれよ!』

威勢良くそう言って手を振り、彼女はきびすを返して去っていったのだ。

リュカはその思い出を決して表にはしなかった。
あまりにも大切な記憶だったから、タブーの前で口にすればそれを汚されてしまうような気がしていたのだ。

だが彼の虚ろな眼窩は全てを見抜いていた。
タブーはじっと覗きこむように顔を近づけ、口を引き結んで耐える少年の顔を眼球の無い目でまじまじと見つめていた。
やがて、彼は深いため息をついて身を起こすと一つ鼻で笑った。

『フン……下らんな。
あれから何年が経った。その女は迎えに来たか? 一度でも会いに来てくれたか?』

リュカは答えなかった。答えられなかった。
それでも希望を失っていないことを示すために、相手の顔をじっと睨みつけていた。

タブーはそんな彼の気持ちを真上から踏みにじるようにしてこう言った。

『それはお前の思い上がりだ。
お前は忘れられたのだ。さもなくば、必要とされなかったのだ。
なぜならお前は無力だ。自分一人では何もできず、何一つ自分の手で守れはしなかった。そんなお前を誰が望む?
全てはお前がいなくても円滑に回っていき、順当に解決されていく。そこにお前が入る余地はないのだよ。永遠に』

そうして、嘲るような調子でタブーは両腕を広げてみせる。

足元の少年から精一杯の怒りを込めた視線が向けられていることなど気にもせず、
彼は再びその腕を胸の前で交差させた姿勢に戻ると、リュカに向けてぐっと顔を近づけた。

少年の顔の間近で、決して声を発することのない口がぞっとするような微笑みを浮かべて言った。

『取引をしないか?』

それを聞き、リュカの目に訝しげな様子が表れる。
タブーは相手がこちらの出方を窺っていることをじっくりと時間を掛けて確認し、そこに僅かながら揺れ動く感情があることを読み取る。
そこで彼は満足げに口角を吊り上げるとこう続けた。

『私が力を貸そう。お前は頷くだけで良い。
それだけで、全てはお前の願う通りになる。
お前は強くなれる。誰も抗うことのできない、唯一にして最強の力を手に入れるのだから。
その力があればお前の目の前にある全てを消すことができる。立ちはだかる壁も、お前の邪魔をする敵も。
お前を苦しめる残酷で不条理な現実を否定できる。望むだけで、全てが思い通りになるのだ』

そう言ってから、彼は不意に呼称を切り替えた。

『君は、寂しくはないのかね?』

それはあまりにも突然だったので、リュカは思わず驚きを顔に出してしまった。
尋ねかけたタブーの声が、がらりと調子を変えたのだ。まるで本当に心から気遣っているかのように、優しく囁きかける声に。

リュカは生まれて初めて、心を見ることが出来ない"普通の人"の苦労を思い知らされていた。
ここにタブーの本体が無い以上、彼の心はその仕草や声音から推し量るしかない。
だがそれはリュカにとってみれば、何のヒントも出されぬまま、箱の中身を開けずに当てろと言われたようなもの。
彼が平常心を取り戻そうとあがいているその間にも、タブーはこちらの心の奥底にまで押し入るようにして言葉を吹き込み続ける。

『君は強くなりたいと願っている。誰にも負けず何にも屈することのない力を手に入れたいと。
しかし、その力を何に使うつもりだ? 人を救うだの、世界を守るだの……いくら綺麗事を言っても私には分かるぞ。それは建前だ。
なぜなら君には帰る場所もなく、君の名を呼んで気にかける者もいない。何も残されていないというのに、これから一体何を守るというのだね。
それとももしや君は、強くなれば誰かが振り向いてくれるとでも思っているのかね?』

転んでしまった幼子を笑うような何気ない調子で、タブーは笑った。
そんな扱いをされていながら、リュカの方には怒るような様子も無かった。
瞳は揺らぎ、戸惑ったような顔をしてタブーの透き通った顔面を見るばかりで、言い返すこともできずにいる。

タブーはまるでお辞儀をするように、芝居がかった仕草で片手を胸の真ん中に当てた。
青く透き通った手を通して、妙に生き物めいた光を放つコアがリュカの目を、心を凝視する。

『自分の気持ちを偽る必要はない。嘘や建前でなく、本当に自分がしたいことをしてはどうだ?
私と一緒ならどんなことでも可能になる。君の小さな頭では想像も付かぬようなことまで。
もう少し頭を柔らかくして考えてみたまえ。君を取り巻く現実について、それをあるがままに見つめるのだ。
何が間違っているのか、何が要らないのか。なんでも良い、君が否定したいことを私に言ってごらん』

リュカは半ば呆然としてタブーの顔を、タブーのコアを見上げていた。
彼の囁きかける言葉が頭の周りで渦を巻き、蛇に睨まれた蛙さながらに呪縛に掛けられていたのだ。
自分が彼をそうさせたことを知っていながら、それをおくびにも出さずにタブーは小首を傾げる。

『ふぅむ。少し難しい質問だったか?
それならば私が、君の望みを引き出す手助けをしてあげよう。
そうだな……出発点はこれだ。君が心に抱える、その虚無。
本当は、君は誰よりもよく分かっている。自分がもう、誰からも必要とされていないことを。
母も兄も亡くし、父から見捨てられた君は絶望しきっている。自分がいなくなってしまえば良いと思うくらいに。
だが簡単には死ねないぞ。ひとたび命を与えられた存在は、例え死を望んでいても楽には死ねないものだ。
それだからこそ、君の心に空いた穴はいつまで経っても、何をしても満たされなかったのだ。自分ごと消すしか無かったのだからな。
だが今は違う。こうして私が君の前に現れたのだ。君が望む全てを携えて。
そうだ。今こそ私と手を組もう。最強の力を得た上で、私と共に世界の方を跡形もなく消し去ってしまおう。
誰も自分を必要としてくれない世界なら、存在する意味はない。そうは思わないか?』

手が胸の前から離れ、ゆっくりとリュカのほうへと差し出される。
開かれた手の平。こちらの顔を丸ごと包んでしまえるほど大きな手が、
この世のものとは思えない青さに輝いて、ゆっくりと近づいてくる。

しかし、リュカが自身の答えを定めるよりも前に、突然その背後で怒気をはらんだ気勢が上がった。

同い年くらいの男の子の声。
妙に聞き慣れたその声にリュカは完全に不意を突かれ、振り返ることもできずその場に凍り付いてしまった。

そんな彼の横を駆け抜け、飛び上がった緑色の人影が手に持った武器を思いっきり薙ぎ払う。
銀色の一閃。声を喉に詰まらせ、後退するタブー。
小柄な勇者は雨の降りしきる草原に降り立ち、下段に構えられた退魔の剣は鋭い光を放っていた。

対峙するようにそれを睨みつける背に、リュカはようやく我に返って声を掛けた。

「……リンク!」

共に旅し、共に生き抜いた若き勇者。
月光を受けてなお凛々しく輝く金色の髪。若草色の胴衣が声を受けて背筋を伸ばす。

だがリュカの顔に浮かびかけていた希望は、相手が振り返ったところでさっと消え失せた。

慣れ親しんだ顔が眉を上げて声の源を探し、そしてこちらを認めると――こう言ったのだ。

「あんた、誰だ?」

よそよそしい、まるで赤の他人を見るような視線がリュカの目を、心をまっすぐに貫く。
月の青白い光に照らされ、強烈な陰影を与えられた顔はまるで人形のようで、何の感情も浮かんではいなかった。

無意識のうちに後ずさり、しかし目をそらすことも出来ずリュカは茫然とした表情で肩を落とす。
感じ取ってはいた。これも"心"のない幻、タブーが作り出した幻想であることを。
けれども彼は覚えていた。タブーの言った言葉、この幻想が誰の心を反映しているのかを。

森の闇に後退したリュカを追いかけるように、ゆっくりとタブーが近づいてくる。
青く輝く彼の姿に追いやられ、リンクであってリンクでない幻は消え去った。

タブーは再び冷笑的な口調に戻ってこう語りかけてきた。

『言っただろう? お前は誰からも必要とされない。
それは彼らも同じなのだよ。お前が「仲間」と信じ、愚直に後を追いかけていたファイターとやらも。
これまでの旅で彼らがお前に目をかけたのは、ただ単に代わりがいなかったからだ。
悲惨なほどに人員が乏しかったから、およそ戦闘に耐えうるはずもないお前を仕方なしに拾った。ただそれだけのこと。
これが本来の"スマッシュブラザーズ"に戻ったらどうなると思う。
もしやお前は、そんなに非力な自分を振り返ってくれる者がいるとでも思っているのか?』

リュカはいつの間にか俯いていた。顔を上げることができなかったのだ。
青い人モドキは、その声に嘲りのみならず同情めいたものまで滲ませていた。それが余計に心に堪えた。

握りしめた拳を小さく震わせ、言い返すこともできず顔を俯かせる小柄な少年。
彼に向けてタブーはなおも残酷で甘い言葉を紡いでいく。

『私には分かるぞ。お前の心にある影が。
見捨てられ孤独になることを恐れ、自分からは何も与えられないと分かっていながらも、無条件の温もりを欲するお前の本音が。
しかしもう逃げることはない。自分を偽ることはない。私と組みさえすれば不滅不敗の力が手に入る。
力とはそのためにある。自分の存在を守るために、自分の居場所を勝ち取るために。
世界が君を必要としていないのならば、それを否定しかえしてやろうではないか。
私と、共に』

リュカは目をつむり、俯いていた。
その手の震えはいつの間にか止まっていた。

心の中では様々な思いが渦巻いていたが、やがてその中から一つの流れが潮流のようにわき上がり、言葉となる。

「違う」

少年は再び目を開ける。
どんなに深い傷跡があったとしても、その過去を否定することは今の自分をも否定すること。
自分をここまで連れてきたたくさんの人。生きている人も行ってしまった人も、彼らが見せてくれた笑顔も残してくれた想いも何もかも、
全て道連れにして『無かったこと』にしてしまうこと。
それを知った彼は、だからこそ頷かなかった。

その青い瞳にあるものを見て亜空間の主は身を起こすと怪訝そうに首をかしげた。
雨はいつの間にか降り止み、真っ暗な空には大きな満月が浮かんでいる。

その輝きを頭上に頂いて浮かぶ存在に、リュカは一歩も引かずに視線をぶつけると更にもう一つ、こう言った。

「本当に寂しがっているのは――君の方だよ」

音もなく、空が裂けた。

黒く沈んだ森も雨に濡れた草むらも、そして空に浮かんでいた"掟破り"の断片も。
何もかもが巻き上がり、裏返しになって空の裂け目に飲み込まれていった。

塵を含んだ風が吹き荒れていたが、リュカは両腕を上げて顔を守ることしかできなかった。
それでも目を細めて見ていると、偽りの幕が巻き上げられていった後に何かが残されている様子が見えてきた。

一面の灰色。初めはそう見えた。
だが風が弱まってきて腕をおろせる頃合いになると、その灰色に広さと濃淡があることが分かってくる。

頭上はるかに広がるわずかに薄い灰色が空ならば、無限とも思える奥行きを持つ濃い灰色の平面は大地なのだろう。
そこには規則的に縦横のラインが走り、整然とした升目を作っていた。
しかし大地の上に置かれた物体はおよそ升目の存在を無視しており、てんでばらばらに置かれている。

音というものが存在しない静けさの中、永遠に散らばったまま立ち尽くす彫像。
それら全てが一つの例外も無く、蝶のような翼を持つ人の姿を取っていた。

それを見てリュカは直感する。今、自分はタブーの心の中にいるのだと。

洋上に出てしまうと彼をここまで運んできてくれた風も凪いでしまい、
リンクは仕方なしに櫂を船底から引っ張り出してきて漕ぎ、風が来るのをひたすらに待っていた。

夜空には雲の気配も無く、満天に散りばめられた星々が砂州となって静かに光っている。
リンクにこれまでのことを思い出させるきっかけになった月も空の高いところからこちらを見おろしていた。
そんな夜空の下でリンクは口を引き結んで海原を見つめ、ただ1人漕ぎ続けていた。

自分のいる場所がどうやってか作り出された幻であることに気付いたリンクは、そこから自力で脱出しようとしていた。

手段として取った方法は至って単純であった。
幻にも果てはあるはず。ならばその行き着く果てまで行ってやろう。
そう考えた彼は家の窓からこっそり出てきて、寝静まった村の中を突っ切って波止場に向かい、手頃な小舟を失敬したのだった。

もやいを解く時には少し躊躇を感じたが、風に乗って島を離れるにつれてそれも薄れていった。
これも幻ならば誰に引け目を感じる必要もないのだ。

星座を頼りに、島を出てきた方角のまま黙々と漕ぐ。
何かを待ち受けるような顔をして空を見上げたリンクの表情に、ふと警戒が走った。
空高くをはぐれ風が吹き抜けていき、それを先陣として洋上に向かい風が吹き始める。徐々に強く、海面をなめ上げるように。
その執拗さたるや、まるでリンクを島へと追い返そうとしているかのようだ。

だが、それで船を押し戻せると思っているのなら甘いものだ。
リンクは素早く櫂を引き上げるとマストに飛びつき、畳んであった帆をバサリと広げると支柱にかじりついた。
全体重を掛けて支柱を引っ張り、風向きに対して帆が斜めになるように持っていく。
急流を漕ぎきるように交代で帆を左右に切り替えて、徐々に強くなっていく向かい風をいなすばかりか推進力として利用していった。

足元では船底が不安定に揺れ始め、行く手の海も不気味なほどの黒さを見せてうねり出す。
逆風を押し切りその先へ進もうとするリンクの前にはサメの歯のように尖った波がみるみるうちに高さを増していくつも立ち塞がり、
木造の小舟を粉々にしようと、次々と怒濤をなして崩れ落ちてきた。

明らかに不自然な荒れようだった。
元より洋上はいつ何が起きてもおかしくない場所ではあるが、この暴風と高波には明白な何者かの悪意が感じられる。
しかし、その渦中にたった1人で放り込まれ歯を食いしばって帆を操るリンクの口元にはいつしか強気な笑みが浮かんでいた。
やはり自分は間違っていなかった。自分は騙されていたのだ。

もう迷うことなく胸を張って言える。
自分には勇者の名があり、責任があり、立ち向かうべき相手がいる。

「おれは、諦めねーからなっ!」

リンクは自分を鼓舞するようにそう叫んだ。
荒波のわずかな隙間を潜り抜け、風に持って行かれようとする帆を全力で引き留める。
けれどもその頭上では空模様までもが怪しくなりはじめ、雨の気配をはらんだ黒雲が空を覆い尽くそうとしていた。

そして――

閃光が目の前で炸裂し、吹き飛ばされたリンクは背中から船底に叩きつけられる。
音を超えた衝撃に目を回しつつも何とか上半身を起こした彼は、そこにあったものを見て愕然と目を見開いた。

帆が無くなっていた。
マストは根元を残してぽっきりと折れており、雷の直撃を受けた部分が黒くくすぶっている。
あまりにもできすぎた災難。リンクの表情が驚きから憤慨へと移り変わっていく。
これでもう進めまい、と嘲笑うタブーの声が聞こえるようだった。

だが、リンクは立ち上がった。
何度となく波を被ってぬるぬると滑る横板に手をつき、勝手に傾いていく船から振り落とされないように腰を低くして櫂に手を伸ばす。
自分の体も船と同じくらいずぶ濡れになっていたが、もはやそんなことを気にしている暇はなかった。

軸受けに櫂を乗せて荒波から小舟の制御を取り戻し、何とか波間を縫って針路を取ろうとする。
しかしその矢先、船の横腹から殴りつけるような衝撃が加わった。
船底に倒れ込んだリンクの見る先で櫂は軸受けを離れて吹き飛び、波にさらわれていってしまった。

少年はぶつけた肩を手できつく掴み、歯を食いしばった。
船の縁に手を掛けてゆっくりと立ち上がり、船首の先に立ちはだかる嵐の海を睨みつける。

白い波頭を見せて伸び上がり、一気に崩れ去る黒い水。雷が閃くたびにその光景が凍り付いたように切り取られたが、
遅れて聞こえてくるはずの雷鳴は頼りないほど微かだった。それほど波が騒々しく荒れ狂っているのだ。
船の上にも、そしてそれに掴まるリンクにもひっきりなしに冷たい滴が降りかかっていたが、もはやそれが海の水なのか雨なのかさえはっきりとしない。

すっかり冷え切ってしまった白い手で船の小縁こべりをきつく握りしめ、しかし強く心を保つことしかできずにいるリンク。

そんな彼の見据える先で出し抜けに、他の波を押しのけてこれまでよりもはるかに高い波濤はとうが現れた。
黒い絶壁。その岩肌は生き物じみた動きで揺らめいて、はるかな頂きから白い筋がいくつも下り落ちていく。
帆も失い櫂も飛ばされ、為す術もなく荒波に翻弄される彼と小舟に向けて見上げるほど巨大な牙を閃かせ、とどめとばかりに襲いかからんとする。

全ての希望を飲み込む怪物の口。
それを睨みつける少年の目に、激しい炎が灯った。

気勢を上げて駆けだし、波の前に船首を屈しみるみるうちに傾いていく船底をあっという間に走り抜け、
舳先を蹴って、跳び上がった。

風が、変わった。

振りかぶられたその手にはいつの間にか退魔の剣が握られ、彼の手の中でその刀身をまばゆく光り輝かせていた。
またそれを持つ彼の姿も勇者の装いを取り戻し、若草色も鮮やかに、化け物のような高波へ向けて飛び込んでいく。

一閃。波はおろか、彼の刃は海をも切り裂いた。

ぱっくりと口を開けたのは、捉え所もなく蠢き続ける無辺の闇。
轟々と音を立てて海の水が飲み込まれていき、波も小舟も、そして風の勇者も底知れぬ暗闇の中に落ちていった。

かつて。
『彼』は、様々なものを創った。
{彼}は、様々なものを壊した。

彼らは忙しかった。
創ったそばから壊し、壊した跡から創り。
そうして世界のより良い形を見出そうとしていた。

彼らはまるで一組の手のようになって、休む暇なく絶え間なく創造と破壊を繰り返した。

目まぐるしく移り変わる世界。
何千という大きな舞台、数の上ではそれの何千倍もある小さな試作品。
創っては壊され、壊されては創られ。
世界は慌ただしく混沌と秩序の間を行き来し、一瞬として同じ姿を見せず、活気に満ちた音と光に包まれていた。

その騒乱の中で、-それ-は生じた。

誰にも知られることなく、誰にも顧みられることもなく。
『彼』が創って出来たのか、{彼}が壊したあとに生じたのか。今となっては知る術はない。

初めのうち、-それ-はただ大人しく、石ころのように小さくうずくまって横たわっていた。

-それ-は不完全な存在だった。
正常な空間では生存できないために、-それ-は身の回りを不完全な空間で包んでいた。

-それ-は永い間目も見えず耳も聞こえず、自分が存在していることさえも意識できずに、ただそこに転がっていた。

しかしある時。
周囲を包む終わることのない喧噪に、ついに-それ-は目を覚ました。

音が、光が、香りが。
全てが混然となった何かが-それ-を取り巻いていた。
この頃の-それ-は赤子よりも無知で、情報を意味と結びつけることもできず、あらゆる刺激をただ一緒くたに受け取ることしかできなかった。
それでも、なだれ込んでくる刺激が"愉しさの予感"に満ちていることは感じられた。

知りたい。それが、初めて-それ-が望んだことだった。

すると、-それ-に目と耳、鼻が生じた。
そしてそれらを支え個性としての顔立ちを確定する頭も。

すぐに-それ-は世界の、そして自らを取り囲む外の広大さに眼のない眼窩を瞠った。
周囲で響きわたるありとあらゆる音に耳をそばだてた。
祭りを知らせる楽の音、あるいは焼き上がっていく菓子のにおい、日が暮れて夜空に広がっていく星々の輝き。
今や刺激にはそれぞれの意味が加わり、複雑な深みを持って-それ-の脳裏に焼き付いていった。

-それ-はしばらく、世界の輝かしさに身じろぎもせずただただ見入っていた。
心打たれ、魅せられていた。

言い表すならば、この時の世界は終わることのない花火。あるいは次々と競うように咲き誇っては移り変わる永遠の花園。
目まぐるしく伸び上がっては崩れて消える透き通った結晶。寄り添っては散っていく星団の移ろい。
ありとあらゆる宇宙の神秘と時の流れが凝縮し、この瞬間をもって一度に弾けたような輝きを持っていた。

美しい。その言葉が口から出せなくとも、-それ-は生得的にものの美しさを感じられるだけの知性を持っていた。

続いて、-それ-の幼い心に一つの欲求がわき起こった。

触れたい。
触れて、そして自らのものにしたい。

渇望が-それ-に手を生み出した。

初めのうちは指も関節もないただの触手のようなものだったが、
-それ-は構わずその不完全な手を伸ばし、外に触れようとした。

しかし、どこまで伸ばしても届くことはなかった。

-それ-の手が触れた場所は片端から消えてしまうのだ。
壊れるのではなく、消えてしまう。彼を包む空間と同種の不完全で曖昧な紫色のもやとなって同化していく。
まるで、手に受けとめた雪の一片があっという間に溶け去ってしまうように。

その理由が、まだその時の-それ-には分からなかった。

目の前で起きた現象が-それ-に備わった性質のためであることも知らず、
次に-それ-は前に進むことを欲した。速さが足りないのだと、そう思ったためだ。
手の成長はこれ以上早めることはできず、どれほど伸ばしたところであの輝きには届かなかった。
それならば自ら身体を動かして進んでいこうと、-それ-の原始的な思考は結論づけた。

そして足が生じた。

まだ指のない手をつき、関節もない柔らかな脚を無理矢理に突っ張って。
数歩這っては地にくずおれ、すがるものも無いまま立とうとしては転び、それでも覚束ない足取りで前へと進み始めた。

しかし、-それ-が足を着いた先から大地はにじんで消え、
触れた先から花や草木は曖昧な亜空の中に溶け込んでしまった。

それでも-それ-は進み続けた。
原色の花が咲き誇る熱帯林を歩み、まだ誰も訪れていない新品の街並みを抜け、幻想的な極光の輝く氷河を踏みしめた。
いかなる大地も彼の足跡を留められなかった。彼の歩いた後にはただ闇ばかりが広がっていった。

ひどくゆっくりと、しかし着実に-それ-は成熟していった。
身体は半透明に光りながらもしっかりとした輪郭を持ち、手足は試行錯誤の末に、正しい関節と指を備えはじめた。

発達したのは自我も例外ではなかった。
-それ-は自らを意識し、外と内というものを認識した。
自らを包む茫洋とした亜空間を知覚し、自分の手足が触れた先から物事が形を失って消えゆくさまに見入った。

そしてついに……

自らが決して、「外」に辿り着けないことを悟った。

-それ-は初めて途方に暮れ、立ち止まった。

-それ-は、自らが初めて目覚めた場所とそこから歩いてきた道のりを、
ただ曖昧に蠢く出来損ないの時空でしかない、美しさの欠片も感じられない亜空間を見やった。
そしてそれから、再び前を仰ぎ見た。

世界は-それ-の前にどこまでも広がり、見上げる空は果てしなく高く、横たわる大地はありとあらゆる色彩に染まっていた。
そしてその天地のあわいには-それ-の認識を遙かに超える様々な事象が次々と現れていた。
生じ、瞬く間に成長し、あっという間に消えていく。

世界は輝かしく、荘厳でいて騒々しく、豊かな混乱と秩序に満ちていた。
荒唐無稽でありながら、同時に圧倒的な質感をもった夢と現実が一所に共存していた。

それらは皆、手を伸ばせば今にも届きそうで
それでいて決して-それ-の手の届くところにはなかった。

-それ-は、疎外されていた。

決定的に。そして、永続的に。

-それ-は漠然とした亜空間に佇み、両腕を力無く垂らし、
決して自らが加わることのできない天地を見つめ続けた。

2本の腕、2本の脚、5本の指を持った手と足。

-それ-が人間の姿を象ることとなったのは
偶然か。必然か。

リュカは石像から手を離した。
彼の表情には恐れるような、それでいて憐れむような複雑な陰りがあった。

顔を上げ、辺りを見渡す。
終わることのない盤の上には彼のまだ見ていない記憶が散在し、地平の果てまで延々と続いていた。
請い願うように空へと手を伸ばす像、腕を力無く垂らし歩いて行く像、じっと背を丸め何事かを考え続けている像。

そこにあるものは全て、怒りと苦痛に満ちていた。
どれほどの時が経とうと決して癒されることのない深い傷。
見る者を圧倒するほどの激しさと同時に、それらをも虚仮にして嗤う虚無主義が至る所に巣喰っていた。

そして、彼の心の中には自分のほか何者の姿も存在していなかった。

踏み出しかけた足が戸惑う。
これ以上彼の心の奥に踏み込めば二度と戻ってこられなくなるのではないか。そんな予感がよぎったのだ。
目の前の光景はあまりにも寂れ果て、すさみきっている。色らしい色もなく、終わりも始まりもそれに向けた気概も感じられない。

しかし、見始めたからには最後まで見てやらねばならない。
リュカはいくつかの記憶に触れるうちに、だんだんとある確信を芽生えさせていった。
今まで誰も知らず、また理解しようともしなかった彼の思いが、彼がああなるまでに至った理由がここにはある。

少年は口を引き結び、決意した。
自分は、理解しなくてはならない。彼の怒りを。彼の苦しみを。

そして茫漠と広がる灰色の煉獄へと、踏み入っていった。

寄り集まり、形を成せぬまま散り、未練がましくたゆたう。
そうした事象になりそこねたいくつもの思いがかすかな光となって、闇の中に尾を引いていた。

亜空間の深奥。
どこかから吹いてきた風が天地の別も判然としないような虚空に哀しげな音を響かせる中、
永遠に繰り返されてきた定常を破って誰かの叫び声が近づいてくる。

それは、真っ逆さまに落ちてきたリンクのものであった。
彼の落ち行く先には藪のように絡み合った繊細な光があった。
それはとても彼の体重を受けとめられるようには思えないほど微かな光であったが、リンクの身はどさりと音を立ててその上に墜落した。
光の森はその枝の上に何かしらの力場を生じさせていたらしい。

「……ってぇ」

受け身を取る覚悟もできていなかったために腰を派手に打ってしまった。
痛む腰をさすりながら、彼は顔をしかめる。

だが、つぶっていた目を開いたところで彼の手はぴたりと動きを止めた。
初めて見る亜空間の内部、その光景に圧倒されてしまったのだ。
ぽかんと口を開け、リンクはしばらく頭の上に広がる景色を目を丸くして見つめていた。

予想に反し、亜空間には光があった。
背景にはやはりあの蠢く暗紫色が堂々と居座っていたが、ものを見るのに苦労するほどではない。
あたりを漂う彩雲のようなものや、凝集した結晶らしきものなどがそれぞれに淡く発光し、
全体として亜空間の中に月明かり程度の光を提供しているのだった。

空を流れていくぼやけた色は溶かされた世界の残渣なのだろうか。
ほとんどが何をも形作れずに風に流され、ゆっくりと遠くに消え去っていく。
だが中には、リンクが今も腰を下ろしている地面のように結晶を作っているものもあった。
辺りを見渡すと、そうした珊瑚礁のような塊があちらこちらに浮かんでいる様子が目に入った。

リンクはそこで目を瞬く。
遠くの方に、光とは違う明らかな実体を持った輪郭を見つけたのだ。
それが誰であるかに気付いた彼はほとんど無意識のうちに立ち上がると、駆け出していた。

幽玄とした亜空間の浮島を次々に飛び渡り、走り、そして辿り着く。
亜空間の底から堆積物のように盛り上がって、浮島のある高さまで到達した黒紫色の闇。
そこに、今まさに飲み込まれようとするリュカの姿があった。彼は脱力しきった様子で目をつぶり、気を失っているようだった。

リンクは咄嗟に、外に出ている方の腕を掴む。その手に温かさを感じてリンクは少しだけほっとした表情を見せた。
まだ間に合う。だが早く助けなければ。安堵もそこそこに、思い切り引っ張った。
一瞬の抵抗を感じたが闇は案外すんなりとリュカを解放し、リンクは勢い余って後ろにひっくり返ってしまった。
リュカはその向こう側に放り投げられ、それで目が覚めたのか驚いたような声を上げていた。

途方に暮れた顔で辺りを見回し、状況が飲み込めていない様子でその場に座り込んでいるリュカ。
リンクは二度もぶつけた腰に手をあてがいつつ立ち上がり、そんな彼を上から見おろしてこう言った。

「いったいどういうつもりなんだよ、あんなとこで呑気にぐーすか寝るなんて。
おれが助けに来なかったら今頃あのぐねぐねしたのに飲み込まれてたんだぞ?」

ちょっと怒った調子で言い、空いた方の手で後ろの闇を指さした。
亜空間の中にある全ての暗がりを凝縮させたかのように不気味な色をした物体。
しかし、それを見やるリュカの表情にはまだどこか魂の入りきってない、寝ぼけたような感じがあった。

彼はそんな顔のまま、奇妙なことを呟きだした。

「僕……タブーのことが、もう少しで分かりそうだった。それで……」

本当におかしくなってしまったのかとリンクが心配し始めた矢先、見る前で不意に彼の瞳に力が戻った。

「……そうだ。僕達、彼を止めないと!」

そう言って、ようやくこちらにしっかりと視線を合わせてくれた。
いきなり真剣な調子になったのでリンクはそれに合わせるよりも先に思わず笑いが出てしまった。
頭の後ろに手をやって苦笑する。

「あぁ良かった。戻ってきてくれたか」

今度はリュカの方が怪訝そうな顔をする番だった。
彼はそのままもう一度辺りを見渡し、こう言った。

「僕らの他には?」

短い問いかけだったが、その意味するところは十分に分かっていた。

「誰も来てないみたいだな……」

そう答え、リンクはリュカと同じ方角を見つめる。
一つとして同じ形を留めるものはなく、何もかもが曖昧で、それでいて決して2人の知る世界とは相容れない景色。
音と言っても、どことも知れない空を通り抜ける風が背筋も凍るような音を立てるばかり。どれほど耳をそばだてても仲間の声は聞こえてこなかった。

リュカは自分たちが胸元に通信機を付けていることを思い出し、そのスイッチを入れた。
しかし、呼び出しを続けても応える者はおらず、バッジからはざらついた雑音しか流れてこない。

2人はわずかな期待を込めてしばらくその雑音に耳を澄ませていたが、やがて何も言わずにリュカの方から通信を切った。
やはり、この場にいるのは自分たちだけなのだ。それが一つの揺るがしがたい実感を持って2人の背に大きな影を落としていた。
自分たちを送り届けるために残った彼らはどうなったのだろう。マスターハンドが扉を開けて避難させてくれただろうか。
それともそれさえ間に合わず、世界の消滅に巻き込まれてしまったのだろうか。

亜空の彼方を見つめ、佇む2人の少年。

そのうちの一方、リュカがふと背後を振り向く。
何かが立ち去る気配を感じたのだ。その感触は、それまでそこにいたことさえ分からないほど静かにしていた何者かが隣で立ち上がり、
わずかな衣擦れを残して去っていく様子にも似ていた。

振り向いた先で、流れが生じていた。
先程までリュカが体をうずめていた闇の中にも、永遠に日の昇らない空にも、そして2人が立つ足場の周りでも。
何者かの気配が青く輝く流れとなって一斉に流れていき、彼方でまばゆい焦点が結ばれていく。

やがて輝きの中から顕現したのは、亜空間の主。
彼はこちらに背を向けて両腕を胸の前で組み合わせ、宙に佇んでいた。

それを認めたリンクはきつく拳を握りしめ、今にも駆け出そうとする。
だが、後ろからその手を掴まれ、引き留められた。

「待って!」

振り返ると、真剣な表情をしたリュカと目が合った。
彼は何かを言いかけてためらい、そして彼の中で決心を付けると再び顔を上げた。

リュカは、目をそらすことなくこう言った。

「……僕、分かったんだ。タブーを倒すための方法が」

リンクはこれを聞き、初めは怪訝そうに眉を寄せていた。
彼からすれば、リュカはただ暗闇に体を突っこんで眠っていただけに見えていたのだ。
その気持ちが伝わってきてリュカはもどかしげに首を振る。

「僕は見たんだよ。彼の思い出の中で」

それを聞いて、リンクにもやっと合点がいった。
リュカが何をやり遂げたのかは聞かなくても分かった。今までに旅の中で何度となく実例を見せられている。

「おれ達でもできるか?」

彼は等身大の勇者として、共に戦う仲間にそれを尋ねた。
年若いファイターは躊躇した後、頷いた。不安げな顔をしていたが視線は真っ直ぐにこちらを向いていた。

「……でも、僕らも無事じゃ済まないかもしれないよ」

深刻な声で言った彼に、リンクはニッと笑ってこう返した。

「どーってこと無いって! どうせ片足突っこんでるようなもんだしな」

そんなことを、彼は至極明るい声で言うのだった。
彼のその吹っ切れた姿勢にリュカもいくらか元気づけられたようだった。
リュカの表情に明るさが戻ってきたことを確認し、リンクは満足げに頷く。

「そうそう、それでバッチリだ。これからタブーと戦うんだからシャキッとしなくちゃ!」

そして彼は腰に両手を当て、ちょっと改まった調子でこう聞いた。

「それで? あいつを倒す方法ってのは、どんなもんなんだ?」

リュカは口を引き結んで頷き、リンクに自分が見たものを語り始めた。

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最終更新:2016-11-26

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