気まぐれ流れ星二次小説

Open Door!

Track54『Hello World』

~前回までのあらすじ~

『スマッシュブラザーズ』に選ばれ、それぞれの思いを抱いて輝く扉をくぐったファイター達。
しかし、彼らは目的地とは異なる灰色の世界に連れてこられ、得体の知れない人形の軍勢によって1人、また1人と捕らえられていく。
そんな中、プロロ島の風の勇者リンク(トゥーンリンク)と、タツマイリ村の少年リュカが出会う。

2人は時にぶつかり合いながらも共に力を合わせて戦い、人形兵の追跡を逃れて旅を続けた。
彼らのように何とか生き延びていた者や、後から駆け付けた者、そして謎の勢力に操られていたところを取り返せた者。
少しずつ仲間も増え、2人は灰色の世界にまつわる多くの真実を知ることとなる。
全ての元凶は、意外なことにも彼らの招待された『スマッシュブラザーズ』とも関わっていた。
当初作られたばかりだったかの世界にどこからともなく現れ、亜空間で飲み込もうとした存在、タブー
マスターハンドは情が移ったために彼にとどめを刺せず、世界の外に追い出してしまった。
だが、タブーはどうにかして"外"を生き延び、復讐のために今回の出来事を引き起こしたというのだ。

11人いた仲間のうち、無事にタブーの潜む亜空間へとたどり着けたのはリンクとリュカのみ。
圧倒的な力の差で打ちのめそうとするタブー。しかし、たった2人で戦いを挑んだ彼らには勝算があった。
リュカが知り得たタブーの記憶を頼りに彼を挑発し、否定の波動を誘い込むリンク。
三度目にしてついに亜空間は砕け、世界の外に広がる真の真空に晒されたタブーは力尽き、倒れ伏すのだった。


  Open Door! Track54 『Hello World』


Tuning

受け継がれる物語

嵐は過ぎ去り、虚空には浮島だけがただ一つ残っていた。

亜空間に闇をもたらしていた不定形の暗雲も、光を与えていた樹枝状の結晶も、もはや何処にも存在しない。
そこにかつてあった何もかもが、早朝の陽を受けた霜のように力無く、そして呆気なく溶け去ってしまったのだ。
磁器のようにつややかな島の周りには白紙のノイズが、容赦なく全ての存在を消し去る無の色が満ちていた。
それが薄明として目に映るのは、光もなく闇もない無を認識させられた意識のエラーなのだろうか。

たった1つ残ったステージ。正確な円の形を描いたその中央には2人の少年が佇んでいた。
肩を並べて立ち、彼らは足元に転がったまま動かない球体を見つめていた。
わずかに紫がかった赤い球体。大きさは手に乗るほどしかなく、透き通った表面を通してわずかに赤い光が漏れている。

これが首謀者の末路だった。
生き物としても神としても中途半端に生まれ、未成熟なまま生きていかざるを得なかった超越者の、
そして復讐と自滅願望という相反する感情に苦しみ続けた生命の行き着いた先。

しかし、苦闘の末これを見事倒した少年達の顔にあるのは、勇ましく輝く勝者の誇りや喜びなどではなかった。

悲しげな表情さえ顔に浮かべて見つめるリュカの耳には、タブーが幻想の中で言い放った言葉が甦っていた。
『だが簡単には死ねないぞ。ひとたび命を与えられた存在は、例え死を望んでいても楽には死ねないものだ』
あれを言った時、彼の声には単に言葉を弄ぶだけの者には存在しない真に迫った響きが宿っていた。
誰からも必要とされずに生き、孤独にさいなまれ、それでいていなくなることもできない。
あの苦しみは、本当は彼自身が抱えていたものだったのだ。

我知らずリュカは唇を噛みしめ、握った手に力を込めていた。
その視界の横から、革靴を履いた足が一歩前へと進み出る。

ゆらりと横切った銀色の輝きに、リュカははっと顔を上げた。

「……待って!」

思わず、そう言っていた。

声を掛けられてリンクが振り向く。
左の手に退魔の剣を携え、首だけをこちらに曲げて。
彼は明らかに不審げな表情をしていたが、呼び止められるのをどこかで待っていたようでもあった。

何も言わず片眉を上げて問いかけた彼に、リュカはほとんど思いつくままに言葉を綴っていく。

「ほんとに……ほんとに、こうするしか無いのかな。
彼は、タブーはただ生きたいだけだったんだ。自分の居場所が欲しくて、目を向けてくれる誰かが欲しくて……。
寂しかったんだよ。親に捨てられたと思っていたから、やけっぱちになっていたんだ。
それを殺してしまうなんて――」

「そんな言葉を使うな!」

叫ぶようにして放たれた言葉が、とめどもなくあふれるリュカの声を止めた。

意志の強そうな眉の下、リンクの目は固くつぶられていた。
やがて彼はゆっくりと目を開き、相手の視線を避けるようにして自分の足元に目を落としこう言った。

「やめてくれ、『殺す』だなんて。
……これはあいつが自分で望んだことなんだ。
自分じゃできないし、マスター達にもできなかった。だからおれ達がやるしかないんだ」

30人を超えるファイターを連れ去り、有無を言わせぬ大軍勢で討ち取り、意志も感情も凍り付かせた駒として仕立て上げたのも、
その手から逃れた戦士達を執拗に追いかけさせ、およそ心ある者に対して行うべきでない仕打ちを下したのも、
ここに立つ2人を除いた全ての生存者を世界の消滅に巻き込ませたのも、彼の仕業なのだ。

だからといって恨んでいるわけでも、復讐するわけでもない。
終わらせるのだ。同じ悲劇を、同じ過ちを繰り返させないために、ここで憎しみの連鎖を止めなければならない。

だが、それを主張するリンクでさえも言葉を発したきりその場から動こうとしない。
代わりに彼は顔を上げてリュカに目を合わせ、懇願するようにこう続けた。

「だって……それじゃマスター達がやったことと何にも変わらない。そっちの方がかわいそうだろ?
おれ達がここであいつを楽にしてやらなかったら、また世界の外側で独りぼっちになっちまう。
何十年か、何百年か知らないけど、とにかくものすごく長い時間さまようことになるんだぞ。
何もできないし、誰にも気づかれない。そんなのゴウモン以外のなにものでもないって!」

そこまで言っても、リュカは首を縦に振らなかった。
逸らさずに相手の視線と向き合い、静かにしかしはっきりと言う。

「でも、僕らはやるべきことをやったよ。
マスターハンドさんの言ったように、彼にここまでの時間を諦めさせたんだ」

「それだってあいつが言っただけだ。ほんとに消してくれたかどうか……」

言いかけたリンクの視線が明後日の方向を見つめ、ぴたりと止まる。
怪訝そうに眉をしかめたまま、彼はやがて呟くようにこう言った。

「……リュカ、これがおれだけなら良いんだけどさ。
おれ達が乗ってた船の名前、思い出せるか?」

「えっ、それは……」

そこでリュカも言葉を途切れさせ、驚きにますます目を見開いた。

あれだけの長きにわたって住み、利用してきた異世界の船。仲間達の間でも度々その名前を呼んでいたはずなのに、どうしてもそれが出てこない。
奇妙なことだった。リンクがそれを指摘しなければ、自分たちは忘れたことにさえ気づけなかったかもしれない。

絶句したまま、リュカは頭の中で急いで記憶を呼び起こそうとしていた。
自分が扉を開き、灰色の世界に降り立ったところから始めて今に至るまで。
だが忘れたものの存在を、空白の中にあったはずのものを思い起こそうとすることほど難しいものはない。
覚えている場面に厚みが感じられなくなっているのは単に月日が経ったからなのか、
それとも気づかないところで詳細が抜け落ちてしまっているからなのか、リュカにはどちらとも区別を付けることができなかった。

タブーを倒せば今まで灰色の世界で過ごしてきた時間は失われる。
それを知らされた時から、その瞬間の自分の反応や行動を何度想像したか分からない。
しかしこうして実際にその時が来ると、不思議なことに恐怖や不安などは覚えなかった。取り乱すことも、あがこうという気力も無かった。
することと言っても、ただ呆けたように目を瞬くばかり。自分が何を忘れたのか、何を失ったのかさえ分からないからかもしれない。

リンクの方も、自分が少しずつ灰色の世界に来てからの記憶を失いつつあることを自覚したらしい。
依然として難しい表情をしながらも頷き、こう言った。

「おれとリュカがボケたんでもなけりゃ、あいつはほんとに約束を守ってくれたんだな。
……だけどそれだって、おれ達が終わらせてくれるって信じたからやってくれたことだ。
だったら、おれ達も約束を守らなきゃいけないだろ?」

リュカはこれを聞いて力無く肩を落とし、目を伏せた。だが、それでいて決して頷こうとはしなかった。

リンクは一つため息をつく。

「分かったよ。お前がやんないなら……」

きびすを返し、彼はタブーの心臓に向き直った。
手足も顔も、胴さえも失って白い地面に残された赤いコア。
息づくように弱々しく明滅を繰り返すそれに、リンクは一息吸い込むと剣を高々と振り上げた。

そんな彼の背後で、リュカがぽつりと呟く。

「……本気じゃないね」

この言葉に、張り詰めていたリンクの表情から何かが抜け落ちた。
振り下ろされた剣は標的を外れて何も無い地面を叩き、虚ろで甲高い音を響かせる。

剣をそのままに背を丸め、リンクはしばらくそうして頭を項垂れさせていた。

やがて、リュカが見守る先で彼はのろのろと背負った鞘に剣をしまい、向こうをむいたまま背筋を伸ばしていく。
肩を持ち上げさせて深呼吸するように大きく息を吸ったかと思うと、彼は一気に体ごと振り向いた。

「どーしてお前はっ!」

信じられないというように目を丸くし、訴えかけるように両腕を広げ、全身で驚きを示して。
だがそこで、ここまでずっと彼の頑なさを保たせていた気力が尽きてしまった。
ややあって先程よりも少し長いため息をつき、幾分肩から重荷の下りた表情で彼は頭をかいた。

「……まったく、お前にゃ隠し事はできないな……。
ああ。その通りさ! おれだってこんなことしたくないよ。
あんな悟りきったこと言うヤツに引導を渡すのは、もうたくさんだしな」

そして腕を組み、まだ不服そうな表情を残しつつも真っ直ぐな眼差しを向けて問い返す。

「で、どうする?
おれ達にできることで、あいつの望みを叶えてやる方法が他にあるのか?」

機転が利くことで言えば勝っているはずのリンクは、そう言ったきりリュカの返事を待っていた。
彼にも良い手が思い浮かんでいないのだろう。だからこそ苦渋の決断でタブーにとどめを刺そうとしたのだ。

リュカはその青い目を、タブーのコアに向けていた。眉をわずかに寄せ、難しい顔をしていた。
倒れ伏した半神。あの時、彼が嘘偽りのない心で語った本当の理由を思い返していく。

「……存在する理由」

そう静かに呟いて、くせ毛の少年は顔を上げた。

「この人は、タブーはそれを欲しがっていた。
自分がここにいると認めてくれる誰かを、落ち着くことのできる場所を。
だから彼はあの灰色の世界と人形の兵隊を作った。でも、それじゃ満足できなかったんだ」

リンクはとんがり帽を揺らし、頷いた。

「そうだろうな。どんなに頑張ったところでニセモノはニセモノだ。
ガレオムやデュオンにしたって、あいつにとっちゃ自分の手にはめた人形と喋ってるようなもんだったのかもな。
……それで? まさか、それをくれてやるって言うんじゃないだろうな」

訝しげに問い返すリンク。その視線には少しばかりの警戒の色があった。
彼が案じていることを察し、リュカはちょっと笑って首を横に振る。

「あげるんじゃないよ。僕のも、リンクのも。
そうじゃなくて、新しく作るんだ。タブーが生きていける場所を」

リンクはぽかんと口を開けた。
すっかり呆気にとられ、返す言葉もなくただ目を丸くして突っ立っていた。
彼はしばらくそうしていたが、やっとのことでこれだけを言う。

「……作る、だって?」

それに対し迷う様子も無く、リュカは何も言わずにきっぱりと頷いた。
彼がこれほど澄み切った晴れやかな目をしている訳が分からず、リンクは困惑の表情を浮かべていた。
やがて、その表情の中で疑問が不審へと移り変わっていく。彼はその目で相手を見据え、再び口を開いた。

「欲しがってるものをあげれば、そりゃあいつは満足するだろうさ。
だけど、どうやって作るつもりだ? おれ達はマスターやクレイジーとは違う。
なんにも無いところから花咲かせたり小鳥を出したりなんかできない。まして世界まるまる一つなんて、できる訳ないだろ?
それともお前にはできるのか? まさか、まだおれに見せてない魔法があるって言うのか?」

口を挟む余地もないほどの勢いでまくし立てる彼に、リュカは今度は静かに首を横に振って見せた。

「僕だけじゃない。みんな、同じなんだ。
ほら、マスターさんが言ってたことを思い出してよ。僕らにはみんな物語を作る力があるって。
物語はいつ、どこで、何が起こったかを書いたものだよね。つまり、時間と場所と出来事。それってもう『世界』じゃないのかな」

2人の頭上には、いつしか巨大でおぼろげな球体が現れ始めていた。
亜空間の大気とでも言うべきものがいよいよ残り少なくなり、世界の外側が透けて見えるようになってきたのだ。
かつてタブーが眺めていた光景。世界を内包し、ゆっくりと横切っていく水晶玉。

「時間と、場所……」

空を見上げて、リンクは茫然と呟いた。
ありとあらゆる時と場所を含み数多の命を背負う、途方もない大きさを持った無数の世界がもやのむこうを過ぎ去っていき、
やがて首が疲れたリンクはため息をつくと再び相手の顔を見た。

「じゃあ、なんだ、おれ達が話を作れば良いってことか?
それだけで世界ができちまうんなら訳ないよな。でもそれっておかしくないか?
結局は頭ン中で考えてるだけだろ。おとぎ話はおとぎ話。ホントのことじゃない」

「リンク。それ、僕もそう思ってたよ」

リュカはそこでおかしそうに笑い、その流れのままこう言った。

「君に会うまではね」

不思議な杖で風を味方にし、退魔の力が宿った剣を振るう少年。風の勇者。
リンクも彼の言葉を聞き、初めて自分たちが出会った時のことを、そして自分が彼に対して持った印象を思い出していた。
彼は一体どこから来たのだろう。見たこともない服を着て、聞いたこともない力を使う。まるでおとぎ話の中から来たようだ、と。

虚を突かれたリンクはしばし唖然とし、それから渋々といった様子で言った。

「確かに、ファイターはみんな変わったヤツらばっかりだったけどさ……。
それじゃあ、おれ達が作り話だと思ってることも、どんなにムチャクチャなおとぎ話もどっかでホンモノとして通用してて、
今もこの……広い空のどこかに浮かんでるって言うのか?」

半ばやけくそ気味にリンクは片手を上げ、無限に広がる薄明の世界を指し示す。
それから、相手がまだ何も言わないうちに苛立ったような声を上げて額にぴしゃりと手を当てた。

「あー、もう訳分かんねーよ!
リュカの言うことが合ってるとして、どっかの誰かが考えた世界の中にも人はいるだろ。で、そいつも何かを考えるだろ。
その全部がいちいちホントになってたらキリないぜ! 一体どこにそんな余裕があるんだよ」

対し、少しの間リュカは空を見上げて考え込み、真剣な表情でこう答えた。

「たぶんだけど、無には端っこが無いんじゃないかな。限界っていうのも無いんだと思う。
『何も無い』があるから『何かある』って言える。だから、きっと世界ができるたびに世界の外も広がってるんだ」

リンクは腕を組んで自分も空を見つめ、しばらく気むずかしげに眉を寄せて黙りこくる。

2人が口を閉じてしまうと、辺りには耳が痛くなるような沈黙が降りた。
空の明るさはますます薄れていき、2人を取り囲む冷気はいつしか無視しがたい程にまで強まっていた。
亜空間の産物として残された浮島も端から溶かされていき、元の大きさの半分までになってしまった。
自分たちは、本来生き物が存在し得ない場所にいる。この世ならざる静けさが、少年に厳然たる事実を思い出させる。

そしてついに、リンクは頭をかきむしってこう言った。

「あぁもう! あいつの心の中で何を見てきたんだよ、まったく。
……分かった。お前の言ってることはムチャクチャだ。だけどおれには間違ってるとも言えない。
だからおれはその話に乗る。どのみち他にできることも無いんだ。時間も無いし、とにかくやってやるよ」

タブーがコアを残して身体の全てを失い、それによって亜空間の消滅も加速し始めたようだった。
浮島は気がつけば心許ない狭さにまで縮まり、2人の少年はどちらからともなく安心を求めて手を繋ぎ、空を見上げていた。
彼らの前、浮島のちょうど中央には淡い光を放つ球体、タブーの名残が安置されていた。

「……それで? 何から始めれば良いんだ。むかしむかしって言えば良いのか?」

リンクは視線を横に向けてそう尋ねた。
傍らに立つリュカは天に目を向けたまま、こう答える。

「それが取っ掛かりになるならそれでも良いけど……とりあえず世界に必要なものを思い出してみようよ」

「世界かぁ……」

彼はまだどこか胡散臭げな調子を残して呟いたが、それほど間を空けずにきっぱりとこう言った。

「海と、島だな。島がなけりゃ家も建てれないし、海がなけりゃ食っていけない」

「島には村や牧場も欲しいな。広い草原にブタとヒツジと、あとそれを育てる人も」

それが口火となって、2人は競うようにして言葉を並べていく。

「フネだって大事だぞ。帆のあるやつも、ないやつも用意しないとな!
それに乗る漁師に、網を直す人も、銛を作る人も忘れちゃいけない」

「広場に、宿屋に、それに井戸も作らなきゃ。
あぁ、それに小麦畑も! パンを作って焼く人とか、粉を作る人もいるよね」

「人も大切だけど、動物も必要だよな。
魚ってだけでも色々といるぞ。青いのとか、赤いのとか、でっかくて一人じゃ食べきれないのとか」

「ああそうだ! 犬もいるよ。賢くって遊び相手にもなって、一緒に付いてきてくれるんだ」

「仲の良いヤツらばかりじゃない。悪さをする魔獣ってやつもいるぞ。
ろくなことしないけど、あいつらだって生き物なんだよな――」

そこまでを言ったところで、リンクはふと口をつぐんだ。
空の一点を見つめ、自分の目が信じられないというように何度も瞬きをし、それから出し抜けに声を上げた。

「……リュカ! あれ見てみろよ!」

リュカにも見えていた。
光よりも闇が勝り、ほの暗くなってきた一面の無の海。
いつの間にかそこには、淡く被さるようにして色彩が付いていた。

青い海、緑色の草原。色とりどりの魚の群れ、真っ白な毛並みの羊。
それらの幻はおぼろげに揺らぎじきに消えてしまったが、入れ替わるようにして別の幻がそこに立ち現れていった。
どれもぼんやりとして捉え所のない姿をしていたが、間違いなくそれは2人が思い描き口に出したものばかりだった。

2人が揃ってぽかんと口を開け、その光景を眺めていると幻の様相が変わった。
咲きかけた花が冷気に当てられてしぼむように、見る見るうちに色を褪せさせて縮み始めたのだ。
このままではすっかり消えて無くなってしまう。リンクとリュカは慌てて物語の続きを、世界の構成を想起していく。

「えぇと、どこまで言ったっけ? 島には森もあるだろ、船着き場と、見張り台と……学校のある島もあったっけ」

「コンクリートで固められた道路と、それから線路も。山にはトンネルもあって、へんてこな生き物がうろついてたな……」

「山に、森に……ああ、もう森はさっき言ったよ!
後はなんだ? 小高い丘とか、岬とか切り立った崖か?」

2人は思いつく限りのことを並べていったが、頭上の幻は依然として縮小を続けていた。
何かが足りないのかもしれない。世界として成り立つために肝心なものが、今まで並べた中には欠けているのかもしれない。
だが彼らだけでは役不足だった。少なくとも1人は広く世界を旅した経験があるものの、2人はまだ子供だった。

「草むらと、花畑と、林とか森とか……」

「浅瀬、砂浜、小島に中くらいの島、でっかい島と、もっともっとでかい島と――」

せっかく生まれた世界を絶やすまいと、単純にとにかく広くて大きなものを求め始めた2人。
しかし彼らは次の瞬間、同時に口をつぐんでいた。

リンクの空いた方の手に、誰かの手が重ねられた。
思わずそちらに顔を向けたが、そこにあるのは浮島の白く澄んだ大地だけだった。
自分の手よりも大きく、厚い手の平。乾いた布越しに温かさが伝わってくる。それが誰なのか、リンクは覚えていた。

その名を呼び掛ける前に、彼の頭上で変化が起こった。
おぼろげだった幻に深みが与えられたと思った途端、いくつもの新しい風景が加わっていく。
日光を照り返し、燦然と城壁を輝かせる白亜の城。煮えたぎる溶岩の海に守られ、挑戦者を待ち受ける要塞。
支える物も無いのに空に浮かび、勝手気ままな方角に飛んでいくブロックの群れ。青空に砂を散らして飛んでいく大きな鳥。
規則正しく白線の引かれた芝生の上に立ち、どこかで見たことのある姿が見たこともないものを持って、飛んでくる球を打ち返す。

リュカもまた、別の変化に気がついていた。
今まで2人が想像し、維持しようと悪戦苦闘してきた海と島もどきの上に青い空が現れていた。
2人がそれまで想起しようとしていたものよりもずっと深く繊細で、分子の一つ一つまで把握されていそうな程の現実味を持った青空が。

正午の位置に昇った太陽が世界の明るさを統一し、やがて傾いていくにつれて辺りの景色に美しい色彩の変化をもたらしていく。
ゆったりと流れていく雲は純白から燃えるような橙に、そして徐々に赤味を失って青紫がかり、夜空の中に溶け込んでいった。
変わって全天を埋め尽くすのは星空。2人が見上げる向こうで、燦然と輝く星の海の彼方から幻影の群れが飛び出してきた。

彼がこれまで想像したことさえ無かったほどの奇抜さを持つ世界が次々に現れ、消えていく。
一面の氷に満ちた純白の平原。奇妙な怪物が蠢く洞窟。人工物でありながら途方もない大きさを持って太陽の周りを巡る機械の星。
すっかり心を奪われ、言葉を継ぐのも忘れて見入るリュカの左手は、金属を纏うすらりとした不可視の手に包み込まれていた。

助けに来てくれた仲間はその2人だけでは終わらなかった。
無の海に浮かべられた世界はすでに縮小を止め、それどころか一定の間隔を置いて拡張を続けていた。
リンク達2人の手に感じられるのはそれぞれ1人ずつの温かみだけであったが、
天上の変化を見ていればいつ、どこから新たに加わったのかはすぐに分かった。
2人が知っていた物事に別の側面から奥行きが与えられ、次々と、思いもよらない角度から世界が語られていく。

だが、無は依然として彼らの物語を浸食し、現れたそばから輪郭をぼやけさせていた。
ありとあらゆる光景が生成と消滅を繰り返し、これほど広がったのにも関わらず全体として泡沫のように頼りない印象を与えていた。

「これじゃだめだ。何かが足りないんだよ」

困り果てた顔で、ついにリュカはそう言った。
彼と同じ空を見上げ、リンクは眉をひそめて必死に考えようとしていた。

「でも何が足りないんだ? 物語にあって、ここに無いのは……」

彼が答えに辿り着くのと、天上の光景が一変したのはほぼ同時だった。

全ての幻が一瞬にして消え去る。
しかし、それは物語が無に屈した訳でも、目に見えぬ仲間が去ったのでもなかった。

2人の頭上には無とは異なる何かが確かに存在し、見えない境界に蓄えられた膨大な力を一つに束ねようとしていた。

何の前触れもなく、音が響き渡った。
純音。金属を打ち鳴らしたような澄んだ音色は、空から聞こえてきたような気がした。

それにきっかけを得たようにして、2人の周りで様々な音が目を覚まし、思い思いのフレーズを奏で始める。
あるものは最初に響いたあの音を真似てそれに合わせようとし、あるものはそこから始めて音程を変化させていく。
高らかに空へと吹き鳴らされる音色、柔らかく震える優しい音色。打ち鳴らされる膜の音色、つま弾かれ細かく振動する弦の音色。
2人がどこかで聞いたことのあるような楽器の音もあれば、楽器としての形を想像することも難しいような音もあった。

気づけば、空にはありとあらゆるがくの音が勝手気ままに響き渡っていた。
徐々に種類を増やし、一つ一つの音自体も音量を増していく。

それがある頂点に達しようとしたところで、突然、音は止んだ。
白亜の小島と、水晶玉の宇宙。残されたわずかな実領域は、荘厳なまでの静けさに包まれる。

言い知れぬ予感に固唾を呑んで見上げる2人の周りで、千の奏者が音もなく顔を上げた。

空に、光が満ちる。

純粋な白色の輝きが空を埋め尽くし、少年達の頭上から壮絶たる無の領域を一息に消し去った。
光は2人の立つ小島にも届き、その領域に達し、融合した――いや、島全体を飲み込んでしまった。
それほどの強さを持ちながら光は、決して2人の目を射ることはしなかった。

どことも知れない彼方から吹いてくる風に髪を騒がせて見上げる先で、一面の白色の中から滲み出るようにして最初の景色が現れ出た。

澄み渡った青空。

群雲は陽の光を受けて純白に輝き、空の美しいまでの青さを際立たせている。
まばゆさは徐々に薄れていき、眼下に現れたのは若草色の草原に覆われた丘陵地帯。

吹き渡る風は涼しさだけでなく、瑞々しい草の香りを含んでいた。
そこかしこの野草が黄や白の可愛らしい花を咲かせ、辺りの草並みと共に頭を揺らす。
同じ風に髪をなびかせ、目の前に広がった光景をただ唖然として眺めていた2人の少年の周りで再び変化が起こった。

風に混ざって背後から通り過ぎていった、強く揺るぎない流れ。
それに背を押されるようにして2人の視点は丘を越え、その先へと飛び出していく。

足は地を離れ、肌をなでていた草の感触も消える。
まるで風と一心同体になってしまったかのようだった。風は2人の体を支え、運び、遊ぶように追い抜いていく。
2人は見る見るうちに高みへと運ばれていったが、草原は依然として、そして予想外の広さをもってまだそこにあった。

広大な草原は目に見えない風の流れを受け取り、それを見渡す限りに広がる緑色の波立ちとして表現していた。
見おろし、それを眺めていたリンクの顔が何かを思い出し、ぱっと明るくなった。

「これって――」

言葉にまで出さないうちに、それは風景となって現れた。

草並みの隙間から伸び上がるようにして白い波頭が現れ、草の緑を海の青へと塗り替えていく。
ひときわ強い風が吹き渡り、気がつけばリンク達は燦然と輝く真昼の海原にいた。
2人を運んできた流れは止むことなく続いており、足元で力強くうねり続ける波間を越えるほどの速度で
少年達の背を押し未だ見ぬ先へ、先へと駆り立てていた。

「リンク、君が見てきた海は……!」

リュカはそこまで言ったところで、胸がいっぱいになってしまって言葉を途切れさせる。
水平線の向こうを一心に見つめ、彼にしては珍しいほど目を輝かせていた。

同じ方角を真っ直ぐに見るリンクの顔も、自然と笑顔になっていた。

「おれだけじゃない。きっと、他のみんなも見てきた思い出がここに集まってるんだ。
……そら、見ろ!」

2人の行く先、空と海のあわいにいくつもの小島が姿を現していく。
風を切り、波を蹴って運ばれていく2人はその勢いのまま、群島の中へと飛び込んでいった。

深緑の葉を茂らせた巨木、象の足よりも太そうな幹を持った熱帯の木々。
少年達がその名を知らない花々の香りが漂い、うっそうと生い茂る熱帯雨林の向こうで何者かの影が身軽な動きで走っていった。
陽気な呼び声を聞いた気がしてリンク達は思わずそちらの方角を向いたが、
その時にはもう南国の小島は彼らの横を過ぎ去り、また別の風景が2人の視界に広がっていた。

切り立った褐色の崖、驚くほど背の高い奇岩が並ぶ島。2人はその入り組んだ地形に真正面から飛び込んでいく。
岩肌が複雑で恐ろしげな迷路を為していたが、岩はまるで2人に敬意を払い道を空けていくかのように左右を通り過ぎていくのだった。
辺りに視線を巡らせれば、荒れ地と思えたこの島にも多くの生き物が棲んでいることが分かってきた。
毛並みを日差しにきらめかせて岩山を飛びうつり、他の者と力を競い合い、あるいは日陰に潜んで周りの様子を窺っている。
しかし生き物たちの姿をはっきりと見定める暇もなく、力強い風の流れは次の島々へと少年を運んでいった。

白銀の雪に覆われた山々、ふもとには背丈の揃った針葉樹が森を為し、降り積もる雪花の冷たさにじっと耐えている。
かと思えば、次いで現れた諸島は島自体が雲で出来ており、色とりどりの星屑が雲間から顔を出していた。
また別の方角を見れば、逆さまになった島に目掛けて流れ上がっていく滝、池の周りには植物かどうかさえ判断の付かない奇妙な物体。
リンクとリュカは、自分ではない誰かが見たであろう奇想天外な記憶を前に、ただ目を丸くすることしかできなかった。

「知らなかったよ、おれ……まだ見たことないものがこんなにあったなんて」

半ば呟くようにして言ったリンクの言葉に、こちらもほとんど上の空で相づちを打とうとしてリュカはそこではっと口をつぐんだ。
彼の見る先、一段と大きな島が近づきつつあった。2人は真っ直ぐにその島へと運ばれていく。

やたらと背の高い建物が建ち並ぶその遠景は灰色の世界で見た廃墟と似ていたが、遠くからでも明らかに違いが分かる。
あの街には人がいて、生活がある。ここからでもその賑やかさが聞き取れそうなほどだ。

そして現実は、2人の想像を超えていた。

湾に入り、群れて停泊する豪華な船舶の上を飛び越して街の通りに入っていった少年達は、本物の雑踏というものを知らされた。
どこを見ても人、また人。あまりの密度に走ることは適わず、人々は前を行く人に合わせて歩みを進めていた。
ひどく不自由そうに見えたが不満を述べる者はいなかった。どころか、その分辺りを眺めるなり考え事にふけるなりして楽しんでいるようでさえある。

街は均一に見えて、よく見ると様々な文化が入り交じっていた。
小瓶に入った色とりどりの薬を売る露天商が路地にいるかと思えば、その脇を通り過ぎていく人影は見慣れない流線型の銃を携えている。
橋のたもと、軽装の鎧を着込み剣を鞘に収めた男が談笑する相手は人と言うよりは獣に近い姿をしており、
それでいて彼の言葉が全て分かっているかのように、口元には打ち解けた笑いを見せていた。
建物にしても、壁一面が透明な材質で作られた塔のような建物から石造りでせいぜい二階建て程度の宿屋、
道に面した一階部分に店を設けている明るい色合いの集合住宅、美術館か神殿かと思うような堂々とした構えの建造物までが揃っていた。

これほど雑多な物事が寄せ集められているにも関わらず、不思議とそこから感じ取れるのは違和感ではなかった。
何か面白いことが始まる予感、言い表しがたい高揚感。こんな場所があったら行ってみたい、そんな気持ちが2人の胸にわき上がっていた。

大通りには街路樹が立ち並び、濃い緑色の葉をつけるその横を少年達は真っ直ぐに飛翔していった。
道を行く人々の顔立ちも分かるほどの高さを飛んでいたが、しかし誰一人として空を見上げて驚く者はいなかった。
まるで人が空を飛ぶのは日常茶飯事だとでも言うように。
実際に2人の傍を、自前の翼や背負った機械、あるいはそれらも無しに宙に浮き、飛ぶ者がすれ違っていく。

ふとビルの合間から見えた空はいつの間にか橙色に染まり、眼下でも様々な色合いの街灯が灯り始める。
炎の揺らめきを持つ橙色、人工的に作られた白、生物的なつややかさを持つ緑。
人の流れは途絶えることなく続き、夢のようにカラフルな光の森を歩いて行く。その姿格好に一人として同じ者はいない。

さすがに街の賑やかさに少しばかりの疲労を覚え始め、気分を変えようとリンクは空を見上げた。遅れてリュカも。
そんな2人の気分に呼応してか、目に見えない風はゆるりと方角を変え、少年達を上へ上へと運び始めた。

地面が遠ざかり、人影が芥子粒のように小さくなっていく。
落ちてしまったら助からないほどの高さに運ばれた2人だったが、不安は感じなかった。
感じている暇もないほどに、2人の心を占める期待は強かったのだ。
この高鳴りは外からやってくるのか、それとも自ずからこみ上げてくるのか。その答えはきっと自分たちが行く先にあるに違いない。

流れる滝のように過ぎ去っていく建物の窓の向こう。そこにもありとあらゆる場面があった。
いよいよ暮れ始めた空の下、まるでライトアップされたようにそれらの光景が浮かび上がっていく。

落ち着いた照明の中で楽器を演奏する一団、グラスを片手に耳を傾ける人々。歌い手が情熱を込めて聞こえぬ歌詞を歌い上げる。
がらんと広いばかりの室内、彼方のデスクにたった一人で座る人影。眩しいモニタを前にして、黒々としたシルエットが佇む。
明らかに生き物とは異なるただのモノ達が動き回り、それに囲まれて身動きの取れない子供達。
誰かを待ち続けている様子で、物憂い顔を窓の外に向けている幼い姫君。古風な冠。

風は一瞬たりとも立ち止まらなかったが、
過ぎ去る風景は一つ一つが強い印象を訴えかけ、写真のようにくっきりと2人の目に焼き付いていた。

そして最後の窓が通り過ぎ、2人の体は夜更けの空へと舞い上がっていく。
薄紫色の雲をいくつもくぐり抜け、ただひたすらに頭上を見つめる2人を迎えたのは宝石の粒を散りばめたような星空。
どんなに空気が澄んでいても、ここまできれいな夜空を見ることはできないだろう。

それに気づいたリュカは、足元に視線をやったところであることに気がつきはっと息をのんだ。
いつの間にか、そこには彼らが今まで通り過ぎてきた草原や海もなく、あれだけ広かったはずの街さえ跡形もなく消えていた。
彼らは風に乗って、無辺の宇宙空間に放り出されていたのだ。

肌には、まだあの不可視の流れが感じられる。自分たちは完全に見放されたわけではない。
そうと分かっていても、2人はどことなく不安げな様子で辺りを見回していた。
彼らを包み込む真空の静寂はあまりにも広く、圧倒的なまでに希薄だった。

足元に大地が見えなくなったことが一番大きいのかもしれない。
地に足がついていなかったのはこれまでと同じはずなのに、急に拠り所を失ってしまったような気がして落ち着かないのだ。
早く、次の場面を。祈るような気持ちで少年達は思っていた。

数秒か、それとも数分か。
輝きさえも凍り付いたようになって動かない星空に、変化が訪れる。

星とは異なる、赤い輝き。
リンク達は2人ともほぼ同時にそれに気がつき、揃って同じ方へと顔を向けた。
彼らの真正面、前方から何かが近づいてくる。

「あれは……!」

リンクが目を輝かせたのも道理であった。
古今東西、あらゆる者の頭に広がる記憶の海からやって来た船が大船団をなし、2人の目の前に姿を現したのだ。

帆船、カヤック、潜水艦。豪華な客船と木造の漁船が肩を並べ、その上を重装備の艦艇が悠々と突き進む。
船でありながら翼を持ち合わせたものや、船なのかどうか分からないものまで混じっている。
いや、ここにいるのは必ずしも海をゆくための船ばかりではないようだ。

船団は音もなく宇宙を漕ぎ進み、2人の少年は真正面から、そのまっただ中へと飲み込まれていく。
重そうな砲台を抱えた飛行船、海賊の旗を堂々と翻した巨大な木造船、いかにもロケットという形をしたおんぼろ船。
用途も世界も違うはずの乗り物が一堂に集い、全く同じ方角を向いて2人の周りを通り過ぎていった。
彼らが目指しているのはきっと、他のどこでもない未来。もっと速く、もっと遠くへ。乗り手の声が、作り手の声が聞こえてくるようだ。
未だ見ぬ世界に行くために。未だ見ぬ領域を拓くために。きっと誰もが持っている希望に突き動かされて、船団は飛んでいく。

また他方では、船団を見透かした向こう側、ただ暗く静かなばかりの宇宙空間にいつしか様々な天体の幻が現れていた。
あるものは青い海に緑の島々を浮かべ、またあるものは一面が赤い砂漠に覆われていた。
現れては消えるそれら無数の星々の中には対流する模様に覆われた巨大な天体や、薄っぺらい円盤を従えた衛星もあり、
激しい光線を上下に発しながら回転するものに至っては、とてもではないが生命が住めるようには見えなかった。
時折不思議な形をした惑星も混ざっていた。絵に書いたような星形や、滴のような形をしたもの。
明らかに人工物が組み合わさってできた円筒形の巨大建築物、そして瞬きする目を持つ金色の時計。

永遠に続くかと思われた遊覧飛行にも、静かに終わりが訪れた。
始まった時と同様の唐突さをもって、ふつりと船の波が途絶える。
星々のパレードも消え、2人の頭上には再び細かな砂粒を散りばめたような星空が広がったが、
それでも名残惜しげに彼らは後ろを振り返って、遠ざかっていく船を見送っていた。

と、リュカがふと何かに気づいて上を見上げる。
らせんを描いて、星空の向こうから何かが落ちてくる。軌跡は七色に光って残り、宇宙にはできるはずのない虹の橋を造っていく。
虹の道は彼の後ろに回り込んで大きく下向きにカーブを描き、遊ぶようにうねりながら落ちていく。
そして、あるところで気が変わったように上昇に転じると、先程の船団を追いかけるように伸びていった。

しばしリュカは呆然としてその方角に目を向けていた。
そんな彼の前髪を、忘れかけていたあの風がそよがせる。今度は背後からでなく、前から押し流すように。

抗う理由は見あたらなかった。言葉では説明できないところで、彼らは分かっていたのだ。
手だけはしっかりと繋いだまま、2人は風に乗って落ちていく。

先ほどの虹が通り抜けていった後は、まだ道となって残っていた。
近くまで来ると、虹の橋は透き通っていながらもガラスくらいの質感を持って輝き、存外丈夫であるように見えてきた。
そして実際に、うねる虹の隙間をくぐって落ちていく彼らの周りで何台もの乗り物が賑やかなクラクションをならし、虹の坂を駆け上っていく。

「どーなってるんだ、ありゃ……」

目をぱちくりさせてリンクはそう言った。隣のリュカも同じ感想を持っていたが何も言えず、ほとんど上の空で頷く。
厚みなどほとんど無いような虹の道を、色とりどりの車と車でない物が走り抜けていく。何台も、何台も。

前後で2人乗りのオープンカー、タイヤも無しに路面から浮き上がって走る金色の車。
二本の足で歩いて行くゾウよりも巨大な鋼鉄の塊。その後ろに、そっくりそのまま縮めたような機械がまるでその子供のようにしてついていく。
バイクに乗ったレーサーはポニーテールを風になびかせ、ずんぐりとした黒いバンが陽気な音楽を奏で出す。
中には、乗り物に頼らず颯爽と自分の足で走っていく者もいた。
仲間を引き連れて、車輌の縦列を軽い身のこなしで追い越したところで本領を発揮し、青い輝きを残してあっという間に見えなくなってしまう。

彼がそのパレードに見とれていると、急にリンクが切羽詰まった声を上げて手を引いてきた。

「気をつけろ!」

そう言って背をかがめたので、リュカもそれに倣う。
だが地面のないここではしゃがむというより身を丸くするような格好になってしまった。
2人の少年が見上げる向こうから、立て続けに三条の光線が放たれた。その色は、宇宙の闇よりもなお暗い漆黒。

闇の光は2人の頭上を通り過ぎ、そして間髪おかずそれを追いかけるように、凄まじい速さで何者かが通り過ぎていった。
少年のどちらとも姿を見定められなかったが、それの放つ異質な気迫にあてられて彼らは身動きすることさえできなかった。
それでも勇気を振り絞り、リンクは後ろを振り返る。が、目にしたものを見て彼は思わずあっと叫び声を上げた。

凄まじい破裂音。
見渡す限りの広さを持った虹の橋はたった一度の斬撃で寸断され、その断片も更に細かい破片へと砕け散っていく。
その道を走っていた無数の車はふわりと浮き上がり、蜃気楼のように揺らめくと背景の宇宙に溶け去ってしまった。

後に残されたのは、真の闇。
そこには星さえもなく、中を見通すこともできない。だが、そこには何物かが――あるいは何者かが存在していた。
あれもまた、誰かの記憶が集まってできた場所なのだ。訳の分からない恐怖に肌を粟立たせながら2人はそう直感する。

『……』

声。子供とも大人ともつかない声が、誰かの名前を呼んだ。
繰り返し、繰り返し。徐々に速くなっていく。ひび割れ、重なってこだまし、音が歪んでいく。
取り憑かれたようなその呼び声に引き寄せられるかのように、2人の体は落下を始めた。
眼下を占める闇。ドロドロと渦巻く感情の海へ。

ここまで自分たちを運んできた風はどこかへ去ってしまい、闇の重力が2人を縛り付け、ただひたすらに貪欲にたぐり寄せていた。
ものも言わずに2人は口を引き結び、繋いだ手をしっかりと握りあう。彼らにはそれしかできなかった。 

無数の手が波面から伸び上がり、落ちてくる2人を捕らえようとする。
黒く闇に沈んだ手、赤くぬらぬらと光る粘膜に覆われた手、骸骨のようにやせ細った手が襲いかかる。
何かを欲し、何かを望み、己の欠損を他者の犠牲で埋めようというおぞましい意思をもって。

だが、手は2人の身体をかすることもできなかった。ただの一つも。
かがり火に集まる蛾のように飛び込んできては、ふっと勢いを失って崩れていく。
彼らでは弱すぎるのだ。それに気づいても、なお2人の少年の顔から緊張が抜けることはなかった。
今や彼らを包み込んでいるのは静謐な星空ではなくなっていた。
完全なる闇。亜空間のあの暗紫色とは根本から何かが違う、見る者を圧倒するような覇気と狂気に満ちた空間だった。

闇は複雑な形の濃淡を伴っていた。ひときわ濃い部分が人であったり人でないものであったり、そういった生き物の影を象っているのだ。
顔も表情も見えない彼らはどことも知れない遠くから、あるいは2人のすぐそばで、
たがが外れたように笑い続け、身の毛もよだつような怒声を上げ、想像を絶する苦痛にすすり泣き、弱々しく呻き続けていた。

2人は目を背けることも耳を塞ぐこともできない。
どこを向いても逃げ場はなく、いつしか辺りはおびただしい数の影に覆い尽くされてしまっていた。

権力者に取り入った道化がその耳に嘘やまやかしをささやきかけ、くつくつと笑い声を上げていた。
互いに相手が間違っているのだと信じ込んだ軍隊が剣を振り上げ、指揮の手を上げ、終わることのない戦いを続けていた。
自分の身には余るほどの力を手に入れた者がそのあまりの強さに理性を失い、子供のような歓声を上げて恐ろしい武器を振り回していた。
剣の一振りで倒されてしまった弱き者達が恨みの声を上げ、身を寄せ合って蠢き、地を這いずり回っていた。
共に戦い、死線をくぐって生き延びてきた友、動かなくなったその骸を抱えた屈強な男が天を仰ぎ、慟哭していた。

心のある者が、誰しもが持つ負の部分。
理解を超えるような歪みに染まったものから、はっきりとは断言できないほの暗さまで、そこにはありとあらゆる声が満ちていた。

落下するにつれて、2人を取り囲む声からは次第に意味と知性が抜け落ちていく。
心を感じ取る力の無いはずのリンクまで、顔をこわばらせていた。
造り出されたこの場が持つ作用か、言葉を超えた何かが直接頭に飛び込み、染み渡ろうとしてくるのだ。

じっとりと湿った妬み。相手の不幸を笑う、卑屈な声。嘲り。何をしても報われないのだという諦め。停滞。
嫌らしい嬌声。傲岸不遜、圧倒的な力をもってねじ伏せていく者の驕り、勝ち誇った笑い。ねじ伏せられていく者の悲鳴、哀願。
動物のような吠え声、赤子のような叫び声。欠落。埋められることのない虚無。留まるところを知らない飢え、乾き。

2人はその荒れ狂う闇を懸命に耐える。
踏みこたえる大地も無ければ、見据える目標も無かった。隣にいる友だけが唯一の頼みだった。

食いしばった歯の隙間からうめき声をもらし、ついにリンクは耐えきれなくなったようにこう叫ぶ。

「いつまで落ちるんだ! このままじゃ……」

その先を続けることはできなかった。このまま落ちていったらどうなるのか、想像することさえ恐ろしかった。
辺りに響き渡る声はすでに個性を失い、男とも女ともつかない無数の声が意味のない呻きを上げ続けている。
世にもおぞましい不協和音の合唱が鼓膜を不快に震わせ、脳髄へと直接染みこまれるような錯覚を覚える。
リュカからの答えはなかった。答えようとしたが、寸前で行く手に現れたものを見て言葉を失ってしまったのだ。

ぱっくりと口を開けた穴。
輪郭を赤く輝かせ、牙もない口を大きく開けたそれが見る見るうちに大きくなっていき、ついには視界を埋め尽くしてしまう。
家族を喪ってから3年の間、見つめ続けた虚ろな風穴もこれに比べれば可愛いものだったのではないか。
リュカがそう錯覚するほどまでに、闇の中に開いた口は大きく、また尋常ではない生々しさを伴っていた。

あれに飲み込まれたらお終いだ。
自分たちもまたこの場に巣喰う負の感情に染め上げられ、影の一つとなってさまよい続けるのだろう。
それが分かっていながらも、2人はどうすることもできなかった。できることがあるとも思えなかった。

人が火を持ち、武器を得て群れをなし、文明を育てることで遠ざけてきた原初の無明。
あるいはその文明を育んだことによって生まれてしまった新たな闇。
心を持つ限り逃れられない、最も深淵にある概念が今やむき出しとなり、自らを呼び覚ました2人を取り込もうとしていた。

不意に、目の前に手が差し出された。

純白に輝き、ほっそりとした指には傷やかさぶたもなく、生まれてからこのかた苦労などしたこともないような手。
気がつけば2人は、彼らを受けとめてもなお有り余る広さを持つ手の上に載せられていた。

ついた手は紛うことなき温かさを持つ肌と触れるが、それは決して不快なものではなかった。
そのまま不思議そうに辺りを見回していた少年達の視線は、どちらからともなく自然と上を見上げていく。

雲つくほどの高さに、後光を纏う見知らぬ女性の顔があった。
古風な装いに身を包んだ彼女は、手の上に載せた小さな人間を慈しむように見つめ、幼子に向けるような優しさで微笑んでいた。
また同時に、その笑みは自分よりもはるかに儚い存在への憐れみのような感情を含ませているようでもあった。

その表情に訳も無く見とれていると、沈み込むような感覚があって2人は空へと放り上げられていた。
闇はすでにどこにもなく、2人の少年を助けてくれた人智を超える存在もまた姿を消していた。

あの風がうねり、2人の背に追いつく。服をはためかせ、髪をなびかせて再び彼らを何処かへと連れていく。

眼下は開けていた。
嵐が去り、雨の上がったばかりの大地。地平の果てに至るまで、夥しい数の枝のようなものが突き刺さっている。
目を凝らすとそれらが全て剣や槍などの武器であることが分かった。
つい先程まで熾烈な戦いが繰り広げられていたのか、中には紅色に濡れそぼっているものもあった。
いったい幾つの軍隊が戦っていたのか、中には銃や機械など、あきらかに時代の違うものまで混じっている。

だが、それらが皆切っ先を下に突き立てられ、あるいは打ち棄てられていることには意味があった。
空を駆けていくと、やがて遠くから人影がぽつりぽつりと現れ始めた。彼らは1人の例外も無く武器を捨て、
重そうな鎧を着込んだ者も、全身をぴったりとした素材の布で固めた者も、
手綱を引いて馬を連れていく者も、負傷した仲間に肩を貸している者も皆、
その背に掛けた旗印や軍服の意匠が示す所属の違いに関わらず同じ方角を見つめていた。

彼らの視線の先にあるものは、向き合った2人の主導者。
固く握手を交わし、疲れ切ったその顔には紛れもない笑顔が浮かんでいた。
お互いが背負っているであろう幾人もの犠牲、無数の苦しみ、祖先の代から引きずられてきた復讐の念。
それさえも乗り越えて、彼らは相手を受け入れたのだ。誰かが兜を脱ぎ捨て、感極まったように拳を天に振り上げる。
兵達は敵も味方もなくそれに続いて歓声を上げ、肩を組み、抱きしめ合った。

地を震わすような声が響いてやまぬ中、少年達はその光景を高い空から見つめ、そして通り過ぎていく。
あれも誰かの記憶なのか、それともそうなってほしいという誰かの願いなのか。2人にはどちらとも言い当てることができなかった。

地上ばかりに気を取られていたリンクは、リュカが言い出すまで行く手の変化に気がつかなかった。

「見て、あの雲……」

どこか自分でも信じられず、確かめて欲しいというような口調。しかしそれも無理のないことであった。
顔を上げたリンクもまた、訝しげに眉をひそめることになる。

その雲は妙に角張った輪郭をもっていた。黒く縁取られ、影の部分もくっきりと色分けされている。
それも一つや二つではなかった。気がつけば2人は風に運ばれて、そのクロスステッチにも似た景色の中に飛び込もうとしているのだった。
行く先で雲が二手に分かれ、四角いちぎれ雲となった向こうに突然、戯画化された三日月のようなものが現れる。

ぶつかる、と思う間もなく、2人はそれを突き抜けていた。

恐る恐る目を開けたところで、リンク達は目を丸くする。

「おいおい、今度はなんなんだ? おれ達、一体どこに連れて来られたんだ」

半ば呆れたような口調でリンクは言う。
その隣でリュカはちょっと眉間にしわを寄せ、こう呟いた。

「なんか……見覚えある、ような」

それは、既に彼が忘れつつあるあの世界での思い出だった。
人に造られ、人と共に暮らした愛嬌のある機械達。彼らの心を覗きこんだ時に伝わってくる心象風景と似ていたのだ。

まばゆく輝く点と線。正方形を最小単位とする光の花火。
複雑な一本の曲線が様々な色のもっと単純な線へと分解していき、あるいは奥行きを得て無限の地平へと広がっていく。
整然と敷き詰められたタイルが一定のリズムを持って輝き、あるいは明かりを消し、誰にも分からないシグナルを刻んでいる。
振り子のように行ったり来たりを繰り返す球体。互いに直交する平面。転がる円が楕円形の軌跡を残しながら遠ざかっていく。

その場にも確かな感情が、喜びの感情が満ちていたが、2人にはそれを理解することができなかった。
一体この景色を造り出した存在は何に喜びを感じているのか、何を目的にしているのか。
きれいではあるが理解の追いつかない景色に少年達が戸惑っていると、辺りの様子がゆっくりと変わりはじめた。

線が寄り集まり、折り重なって形を作っていく。
それは美しい桃色の花びらであったり、甲虫の透き通った羽であったり、そういった自然の造形物になっていった。
また同時に別の方角では、暗い空のどこかから降りて来た動物の角がふっと輪郭だけになり、曲線と直線に解釈されていった。
純粋な渦巻模様が、小は巻き貝や大は竜巻までと重ね合わせられ、単純な繰り返し構造が雪の結晶や植物の葉脈に映し出される。
その様子を見ているうちに、ようやく2人の顔から疑問が消えていく。

自然の中から立ち現れ、発展していった生き物。
そのうちのいくつかは高い知性を持ち、その好奇心をもって自らを取り囲む世界を知ろうとし始める。
美しさの理由を、強さの理由を、あるいは自分たちが生まれた理由を。
自らが生きる世界に感嘆し、その精巧さに見惚れ、少しでも真似ようと努力し続ける。
形こそ少し違えど、この景色は「未だ見ぬ先を見たい、知りたい」という感情の表れだったのだ。

ようやく合点のいった彼らの周りで、またもや風が唸りを上げる。
途端に真四角の世界は散り散りに吹き飛ばされ、真っ白な空に紙吹雪のような色を添えて溶け去っていった。
白の向こうから現れ始めた新たな景色に向け、風は――2人はいよいよ勢いを増して飛び込んでいく。

彼らはありとあらゆる者の記憶を、夢を見つめ、通り過ぎていった。
物語は尽きることなく語られ、どこまで飛んでも見たことのない地平が現れる。
それらの大半は明るい感情に満たされ、できることならいつまでもここにいたいと思うような景色もあった。
一方では身の毛もよだつような光景やおぞましい敵意に染まった場所もあり、
彼らはお互いを支えに勇気をかき集め、それに飲み込まれないよう腹に力を込めてその暗闇を睨み返した。

この場所に時間の流れがあるのかどうかも定かではなかったが、
絶えることなく変化し続け、終わりの無いように思えた語りにもある大きな方向性が立ち現れつつあった。

リンクは、ふと疲れたように首を巡らせる。
傍らのリュカも目をしょぼつかせ、眉間の辺りを手でもんでいた。
いつの間にか辺りの景色は繊細さと複雑さを増し、2人の目では追いきれないようになってしまったのだ。

空間にはありとあらゆる音と光が満ち、喜怒哀楽の感情も美醜の別もなく、思いつく限りの光景が2人を取り囲んでいた。
それらが何を語りかけていようと、あまりにも周りがうるさく、賑やかに光り輝いているために一つとして意味を取れるものはなく、
だがそのお陰で2人は辺りの景色から距離を置いて、落ち着いて眺めることができるようになっていた。

「なんか、さ」

リンクはそこで一旦、信じられないというように首を振る。

「……なんか、とんでもないことになっちゃったな」

そうして、彼は眩しそうに目をすがめて彼方を見つめていた。
眩しさを感じているのはリンクだけではなかった。リュカも黙って頷き、真夏の空よりも明るく騒がしい景色に目を細めてやがてこう言った。

「これ、ほんとなのかな。僕達、夢を見てるんじゃないよね」

どこか呆気にとられた様子で言う彼の隣で、リンクがぷっと吹きだした。

「何いってんだよ! 元はといえばお前の考えだろ?」

「でも僕達だけじゃできなかったよ、こんな凄いこと」

照れくさそうにはにかみながらもリュカはそう応えた。
"僕達だけ"では。その言葉に思い出すものがあったのか、そこで2人は揃って口をつぐみ、空を見上げる。

そこには、無数の物語が息づいていた。
命を与えられ、まるでそれそのものが一個の生命であるかのように振る舞っていた。
尾ひれがついて泳ぎだし、翼を広げて風に乗り。出会って別れ、混ざって一つに。
その様を例えるならば、ありとあらゆる色の回遊魚が群れをなし、日の光に鱗をきらめかせて踊っているようだとも、
またたっぷりと葉を茂らせた木立が夏の強い風に吹かれ、その度に深緑の葉を散らしているようだとも言えた。

そうした葉の一枚一枚が風に乗り、2人の周りを遊ぶようにくるくると回って通り過ぎていく。
そのたびに、まるで雑踏の中すれ違う人々の話が聞こえてくるような調子で声が甦り、消えていくのだった。

「だから言ってやったのさ。とにかくやってみろって。だってそうだろ? やらないで後悔するよりは」
 「ニュース速報。ただいま入った情報によりますと午前4時、予定の終了時刻を大幅に越え」
「毎日同じことの繰り返し。窓を開け、歯を磨いて、新聞を読んで」
 「けたたましいクラクションの大合唱。それは壊れたパイプオルガンのような音を立てて蒸気を吹き出すと」
 「卵、3個。薄力粉、200グラム。砂糖、大さじ2杯」
「また雨だ。いつまでこんな天気が続くんだろうね。昔はこんなことなかったのに。きっと今に良くないことが起こるよ」
 「エクスクラメーション」
  「壁紙はグリーンだ、淡いグリーン。そんな気障ったらしい色は彼のイメージに合わない。台本を書き換えてくれ」
「ああ、帰ったら温かいスープが飲みたいわ。ベーコンとレタス、しっかりコンソメのきいたスープ」
「全て終わった! もうこれ以上にすべきことも、残されているものも何も無い。何もかも!」
  「それはある日の昼下がり、時のゼンマイさえも緩んでしまったかような空白が通りを満たしていた。その空白は店の中にも我が物顔で」
「答えが一つしかないと、誰が決めたのか」
 「0、1、1、2、3、5、8、13」
「時にはぶらぶら歩くのも良い。なんの用事も持たず、なんの目的もなく。行き交う人を見て、その人がどんなことを考えているのか」
 「錆び付いた、がさがさに錆び付いたハンドル、風に吹かれてカバーがきしむ。その悲しげな声」
 「お客様。失礼ですが、乗車券はお持ちでしょうか?」
「もしもし、もしもし……誰かいませんか」
 「この世の全てが弦の振動で出来ているのなら、宇宙のあらゆる物事は音楽だと言うこともできるのだろうか」
「想像してごらん。青空を見た時、その向こうにもやはり星々があるのだと」
 「門を叩く、門を押す、叩く、押す、叩く、押す」
「あの橋からの眺めは最高なんだ。特に夕方、空が夕焼けに染まる頃、街はすっかり夢の中みたいに静まりかえっていて」

誰かと話しているような楽しさと活気に満ちた声。心の中で独白している言葉、その冷静な朗読。
何かを思い出そうとしているのか、どこか上の空の呟き。明らかに大人数を相手にした演説、真に迫った台詞。
そういった脈絡のない欠片があぶくのように弾けては、ざわめきの中に溶け込んでいった。

過ぎ去る声は足跡として文字を残していき、気ままに行き交う時の流れがそれらを纏って文章を作る。
細くねじれた言葉の束はやがていくつも連なって布地のように編み上がっていき、無限の広がりを持つ一枚のページとなっていく。
幾つもの平面プレーン。幾つもの物語。

目の前に広がる光景はあまりにも複雑で、どれほど集中して見つめても全容を理解することはできなかった。
意味を掴んだと思った次の瞬間に全く別のものへと姿を変え、あるいは同時に幾つもの姿を重ね合わせて現れる。
それでも、とにかくどこかに視線を向けていれば何秒かに一回は意味のある風景が向こうの方から飛び込んでくるのだった。
見て、聞いて。2人がそのとき感じ取ったことを言葉に表すのなら、このようになるだろう――

あらゆる命は物語を紡ぎ、物語は命を持っていた。両者の区別は付かず、ほとんど等価のものとして映っていた。
全ての生きとし生けるものはただ歩き、呼吸し、鼓動を刻むだけで日々小さな物語を紡いでいく。
容姿、仕草、ちょっとした表情。しかしそれこそが、より大きな物語を形作る重要な欠片となっていた。

物語に果ては無く、またどこまで覗きこんだとしても細部の限界に行き当たることはなかった。
どこからどこまでが一つの物語だと言い切ることはほとんど不可能であった。
どんなにかけ離れた物語であってもどこかに必ず他の物語との繋がりを持ち、その網の目が一つの構造となってさらに大きな物語を生み出していく。
そしてまたどんなに小さなものであっても、含まれる要素はそれ自身から新たな物語を生じさせ、常に生まれ変わっていく。

全てが古く、全てが新しい。
昔から語り継がれ、大筋は変わらないまでも装いを変えていく言い伝え。語られるたびにまるで別の物へと変化していくうわさ話。
それまで語られてきた数知れぬ言葉を少しずつ拾い、育っていく掌編。遠い昔に忘れ去られ、虚ろな遺骸のように漂う伝記。
言葉は群れをなして躍動し、瞬く間に姿を変えていく。幽玄としてたゆたい、遠ざかっていく。
どこかで見たようで、まだ会ったことのない物語が挨拶し、通り過ぎてゆく。

もはや少年達が語る必要は無くなっていた。
彼らが紡いだ最初の物語は、すでに彼らの手を離れていた。
しかし注意して見れば、面影を残した景色が辺り一面に満ちていることが分かる。
どこかで見たような街角を行く、見覚えのある顔。初めて見たはずなのに、訳も無く心が落ち着く光景。

ここにはあらゆるものがあったが、その場所にそぐわぬものは何一つ無かった。
相反する概念は辺りを見渡せばいくらでもあり、それでいて互いに拒絶されることはなかった。
どんなにかけ離れた異分子であってもはるかな高みから眺めれば、一番大きな物語を形作る平等な欠片の一つでしかない。
涙も、笑顔も、怒りも希望も何もかも。全てがそこにあり、あるがままの輝きを持って世界を彩っていた。

そしてどんなに小さな物語も、たった1人の声で語られた世界も同じ言葉を紡いでいた。
私はここにいる。僕はここにいる。
今、ここにある。

命ある存在は歩み続け、記憶という名の物語を蓄積し、向かい合う他者を見出す。
時にぶつかり、傷つけ合い、排除しようとし――あるいは互いを認め合い、許容する。
連綿と続く営みが、繰り返される出会いが、また新たな物語を生み出す。

ここには全てがある。世界がある。
至る所にある存在が出会い、別れ、生じて消えていく。
あちらでは語られることのないまま忘れ去られ、気づかれることのないまま風化し、
こちらでは受け継がれるたびに歪んでいき、まったく別の存在へと生まれ変わる。

世界は、物語はそうして回り続けるのだ。
全ての悲しみと喜びを抱えて、全ての命あるものの意思を背負って。素晴らしいほどに輝かしく、残酷なまでに平等に。

2人は今や、世界の裏側を見ているのだった。
あるいは今まで誰も見たことがなく、また見ることができなかった側面から宇宙を捉えていた。
物語は空に満ち、千の声で2人に語りかけていた。年若い彼らにはその全てを理解しきることはできなかったが、
自分でも説明のつかない感情に胸が満たされ、強く心が揺さぶられていることだけは確かに感じていた。
あまりにも美しいものを前にして泣きたいような、それでいて心の底から笑い出したいような変な気分だった。

そんな複雑に絡み合う言葉の生態系をただただ眺めていた彼らの周りを、不意にそっと風が吹き抜けていった。
一つの季節の終わりを告げるような、どこか寂しさを伴った調子で。

物語が、終わることのない輝きがゆっくりと遠ざかっていく。

もう、大丈夫だ。自分たちが居なくてもやっていけるだろう。
優しく押し戻すような風を体に受け、髪をそよがせながら2人は前を見つめ続ける。名残惜しげに、そして少し誇らしげに。
思いつく限りの色と音を伴った無数の物語。それがいよいよ小さくなり、語られているものの判別もできなくなるほどに縮まってしまうまで。

光は一点に向けて集約していき――そして一つの形を取った。

閉ざされた、白い両開きの扉。
偶然にもその形は、2人の若きファイターを『スマッシュブラザーズ』に誘った扉と限りなくよく似ていた。

リンクとリュカは、再び亜空間の残骸である白色の小島に戻っていた。
いつの間にか空はすっかり光を失い、真っ黒に塗りつぶされた無の海へと変貌していた。
冷たい空を悠然と横切っていくのは幾千もの水晶玉、ガラス細工の巨大な惑星たち。
その震え上がるような恐ろしさと美しさを持った世界がこれ以上ないほど明瞭に浮かび上がり、浮島に立つたった2人の少年を見おろしていた。

そんな無に曝されても、ゆったりと浮かぶ白い扉が消えることはなかった。
神々しささえ感じられる輝きを纏い、そこにあるのが当然であるといった堂々たる構えで存在している。
そしてこちらと扉のちょうど真ん中辺りにはひとかけらも損なわれることの無かった球体、タブーの赤いコアも横たわっていた。
それを認め、少年達は自分たちがすべきことを思い出す。

少年達は顔を見合わせ、そして頷きあう。

2人で、繋いでいない外側の手を前へ、押し開けるような格好でゆっくりと差し出す。
それに反応して、見つめる先の扉が向こう側へ向かって滑らかに開け放たれていく。
まばゆい光が燦然と、朝日を思わせる真新しさをもって扉の隙間からあふれ出す。

そこで、ようやく2人は繋いでいた手を離した。
もう自分たちには立ち向かうべきものも、乗り越えるべきものもない。たった一つのことを除いて。

タブーの元に向かい、跪いたのはリンクだった。

両手で抱えるようにして、赤く明滅を繰り返す球体を持ち上げる。
じわじわと肌を逆なでるような不快な感覚があったが、これは彼がまとう亜空間のせいだろう。

もはや動くことはおろか、喋ることもできなくなった彼をリンクは扉の所まで運んでいった。
扉はいよいよ大きく開いていき、向こう側からあふれ出す白い光がリンクと、その胸に抱えられたコアとを平等に照らしていた。
リュカも彼らの後ろについて歩いていく。見送ってやらねばならない、そんな気持ちがこみ上げていた。

自分たちを含め、数知れぬファイター達を追い詰め、平和の中にあった世界を滅ぼしたタブー。
語られた真相に同情を覚えた訳ではない。だが、もはや2人の顔に怒りや憎しみなど残っていなかった。
一方的な感情に駆られて行動することは容易いだろう。でも、それでは本当の解決は生まれないのだ。

終わらせるのではなく、新しく始めるために。

開け放たれた扉の向こうを眩しそうに見上げていたリンクはその視線を下に、自分の手元に向けた。
束の間、掛ける言葉を探してから彼はこう言う。

「……なあ。タブー」

コアから声が発せられることはなく、鼓動を思わせる光の揺らめきが変わることもなかった。
だが、それでもリンクは言葉を継いだ。

「あんたにも見えるか? ……もしも見えないんなら、教えてやるよ。
おれ達は、あんたのために新しい居場所を用意してやったんだ。
誰のもんでもない。誰も奪いとりに来ない。だから、あんたが好きにすると良いさ。
でもな――」

彼の心に閃いたものを感じ取って、リュカが少し戸惑ったようにその後ろ姿を見つめる。
気にも止めず、リンクはニヤッといたずらっぽく笑ってこう付け加えた。

「もうおれ達には手ぇ出すんじゃないぞ。マスター達のことも許してやんな。
これだけ良い宝物を手に入れたのに、性懲りもなく『スマッシュブラザーズ』に攻め込んでくるって言うんなら……
覚えとけよ、その時は本気であんたを倒すからな!」

威勢良く言い切って、その勢いのままにリンクは手にしたものを高く放り投げた。
赤いコアは鳩が飛び立つように宙を舞い、ほんの短い間その頂点で静止する。
その一瞬だけ、コアは扉の向こうからやってくる光を受け止めて、透き通った紅の輝きを辺りに投げかけていた。

別れの言葉もなく、またそれを発することもできず。
やがて静かに彼は、開け放たれた扉の向こう側に消えていった。

彼が通り抜けたのを察知したのだろうか、そこで扉は独りでに閉じ始める。蝶番のきしむ音もせず、奇妙なほど静かに。

扉の隙間からもれ出る光は次第に細く、弱くなっていく。
やがて、扉は見かけに見合わずおとなしい音を立ててぴたりと閉じた。
後に残されたのは純白の扉と、それを見上げる2人の少年。

彼らの目に映る色は一色しか無かったが、2人はもう、そこに多くの意味が込められていることを分かっていた。
多くの色を持つ光が重なり合うと混じりけのない白として目に映るように、あるいはこれから何色にでも染められる布がまっさらであるように。
開かれ、書き出しの言葉が綴られるのを待つ本が真っ白であるように。
扉は全ての可能性を内に秘め、紐解く者を待ち続けているのだ。

見つめる先で、なんの前触れもなく扉が縮み始めた。
少しして、2人はそれが間違いであることに気がつく。扉がこちらから遠ざかり始めたのだ。

遠ざかっていくのは扉だけではなかった。いつしか足元からは地面のしっかりとした感覚が消え、目も耳もだんだんと利かなくなっていく。
冬の大気のように冷たい感覚が腕や足を包み込み、痺れさせ、やがてそれさえも感じられなくなっていく。

ついに、終わりが来たのだ。

不思議と恐怖はなかった。
ベッドに入り、眠りにつく前のあのまどろみにも似た感覚が2人を包み込んでいた。
安らぎが全てを圧倒し、自分が何もかもを忘れ、やがて自己そのものを失っていくことへの不安から遠ざけていく。

海に深く潜った時のように、耳の中には砂嵐のような音と自分の鼓動ばかりが響いている。
その向こう側から呼ぶ声がして、リュカははっと我に返る。
目を開けるまで、自分が目をつぶりそうになっていたことにも気がつかなかった。

「なぁ、リュカ。これで良かったんだよな?」

もどかしげに首を振り、リュカは声のした方角を探す。
白さに閉ざされていく視界の中、辛うじて若草色の服を着た姿が浮かび上がった。
その人影に向けてリュカはこう答えた。

「きっと喜んでるよ……その、彼も。
もう僕には感じ取れないほど弱くなってたけど、少なくとも怒ってはいなかったから」

「これで不満だって言うんなら、笑っちゃうな! ゼイタクもほどほどにして欲しいもんだ」

そう言って彼は笑い飛ばしたが、その声にもまた抗うことのできない眠気が現れている。
そんな彼にこちらも笑顔で返しながら、リュカは自分の心の中にもどかしい思いがあることに気がついた。

何か言わなければならないことがあったはずだ。これで最後になってしまう前に、何か言いたいことがあったはずだ、と。

「リンク」

もはや思い出すことさえ難しくなりつつある、その名前を呼ぶ。

リンクは、執拗に押し寄せる眠さを振り切って返事をした。
そんな彼に、向かい側に立つ少年はしばらく何事かを迷っているようだったが、
やがてできる限りの真剣な顔をしてこう尋ねかける。

「また……友達になってくれる?」

2人が全てを忘れても。
灰色の平原で助けてくれたところから始まって、今までたくさん迷惑を掛けて、それと同じくらい心配したこと。
暗い夜空の下で一緒にたき火を見つめ、分け合った食べ物を手に他愛もない話をして笑い合ったこと。
どこに行っても湧き出てきて、進もうとした道に立ちふさがってくる敵たち。それを2人で力を合わせて倒したこと。
共に闘い、共に笑い、同じ地平を見据えて歩いた頼もしい戦士たち。彼らと一緒に過ごした奇想天外で刺激的な日々。そして皆の笑顔。
今まで乗り越えてきた道のりが失われ、喜怒哀楽に満ちた賑やかな思い出が最後のひとかけらまで消え去ってしまっても。

しかし、これにリンクはきょとんと目を瞬き、そして吹きだした。
拍子抜けしてしまったのだ。何を聞くかと思ったらそんなことを気にしていたのかと。

ここまで笑われるとは思っていなかったのか、向かい側でリュカはちょっとむっとした顔をしている。
彼には悪かったが一度笑いのつぼに入ってしまったからには止めることもできず、涙をぬぐいながらリンクはこう答えた。

「当たり前だろ。ここでおれが嫌だとか言うと思ってたのか?
……ていうか、お前はホントに変わんないな。もうちょっとはっきり言っても良いんじゃないか、なんにしてもさ」

まだ笑いを堪えきれていない様子のリンクを見ているうちに、いつの間にかリュカの顔にもつられて笑顔が戻ってくる。
自分の心配が杞憂だったと気がつき、そして相手が迷うこともなく望んでいた答えを返してくれたのが嬉しかった。
彼は嘘もついてないし、気遣いもしていない。そのことは言った本人以上にも良く分かっている。

今度はこちらが返す番だ。今までにしてもらったたくさんのこと、それに見合うとは思えないけれど
リンクの笑ってる様子を見て、一番伝えたいことがなんだったのかを思い出した。

友達の笑いの発作が落ち着いてきた頃を見計らって、リュカは背筋を伸ばす。

「――僕、君のことを忘れないよ」

白くかすれていく視界の中、友達の目を真っ直ぐに見つめてリュカははっきりとそう言った。
訳も無く、握りしめた手が震えた。

リンクは口を引き結び、この言葉を受け止める。
やがて、その口がニッと笑みを浮かべた。彼の視界もまたかすみはじめていた。
それが涙のせいなのか、ただ無によって視力が失われているのか、もはやどちらとも分からない。

振り飛ばすように頭を振り、気持ちを割り切って彼は一つ大きく息を吸う。
そして、目の前で待つ相手に向き直った。
自分の表情が相手に伝わっていることは、理屈を超えたところで確信していた。

「ああ、おれもさ。
お前みたいな甘えんぼ、忘れるわけないだろ」

彼は友のためにも、強いて笑顔を保つ。

「…………
……またな」

残されたわずかな時間、わずかな空間の中でその声がこだまし、そしてゆっくりと消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

Prologue'

空は、晴れていた。

まだ青味のほとんど無い空に浮かぶのは、夢の中から抜け出してきたようなピンク色の雲。
スープに浮かんだメレンゲのような形をして、朝焼けの名残が残る空をのんびりと横切っていく。

そんな空の下で、世界はしんと静まりかえっていた。
立ち並ぶ白色のビルディング。街路樹は深緑色の葉を露に濡らし、舗装された道路に物憂げな影を落としている。
彼方では朝靄の中、山々が静かにそびえていた。雲の群れはその頂上のはるか上を通り過ぎ、山肌に不思議な陰影を作り出す。
郊外には公園もあり、泥はね一つ付いていない遊具が遊んでくれる子供を待ち、手持ちぶさたに揺れていた。

どこにも人気ひとけはない。
街並みには塵ひとつなく、草原は乱れなく整然と風になびいている。

この世界は、生まれ変わったばかりなのだ。

夜は明け、日は昇り、空は徐々に力強い青さを帯びていく。
木々が落とす影は次第に短く濃くなっていき、道の上に凝った意匠で並べられたタイルが本来の色合いを取り戻していく。
建物のガラスは誇らしげに陽光を跳ね返し、プランターの花々は可愛らしい花弁を広げる。
この世界のあらゆるものが万事準備を整えて、来たるべき訪問者を迎えようとしていた。

例えるならば、開演前のコンサートホール。
観客はおろか演奏者さえもいない、しんと静まりかえったベルベットの空間。

そんな世界にただ2つ、意志を持って動くものがあった。
着ける者もいないまま空に浮かぶ、一対の白い手袋。

「よぅ、また今回も始まるな!」

クレイジーハンドが陽気に言った。

だが、マスターハンドの返事はない。
思慮深く五指をゆっくりと動かし、彼は黙って下界を眺めるばかりである。

「どうしたんだよ、右手」

そう言ったクレイジーハンドの声はいつもの通り軽薄なまでに明るく、あまり不審そうな様子はない。
創造を司る右手、マスターハンドがこのように黙り込むのはいつものことだった。
おおかた左手が気にもとめないような些細なことに気を取られ、深く考え込んでいるのだろう。

マスターハンドは掌を上げることもせず、返事さえ寄こさなかった。だがこれも良くあることだ。
相手にされなかった破壊の左手、クレイジーハンドは手だけの姿で器用に肩をすくめるような仕草をし、自分も下界を見おろした。
世はなべて事もなし。とりわけどうといった問題もなく、全ては順調に整っている。

住民、観光客全てがそれぞれの世界に帰った後で、クレイジーハンドが完全に破壊し尽くした"前の"世界。
今眼下に広がるのは、マスターハンドが前の世界の特徴を残しながら創りあげた新しい世界である。

世界は、破壊と創造を繰り返しながら少しずつ広くなっていた。

2人の前方に広がる街を見ればその発展が如実に分かる。
『スマッシュブラザーズ』のマークを摸して区画された円形の街並み。
中心部には高層ビルが建ち並び、周辺部には宿泊施設はもちろん、区画ごとに趣旨の異なる様々な店が揃っている。
だが一番初めの頃は、招待客の要望を受けて作った数軒の食料品店と質素な宿。それしか無かったのだ。
その"町モドキ"は今や大都市と言っても差し支えない規模にまで成長した。
それだけここが知れ渡り、ありとあらゆる人種だの職種だのが行き来するようになったということだ。

懐かしい昔の頃を思い返し柄にもなく感傷に浸っていた左手は、今度は真下を見る。
朝日を照り返し、堂々とそびえ立つ石造りの建物。ここに来る人々はそれを"城"と呼ぶ。選ばれた者だけが住む、特別な宿泊施設だ。
城壁と広大な森に守られたその様子は、威厳を通り越してどこか神聖な気配を漂わせている。

しかし、その厳かな雰囲気も左手の子供じみた興奮を抑えるには足りないようだった。
ジャズのアドリブを弾くような調子で指を踊らせ、クレイジーハンドは陽気な声でこう言った。

「全く、楽しみで仕方がないよなぁ!
今度来るヤツらはどんなに強いんだろうなぁ、オレを倒せる新入りは現れるかな!」

世界を正しく創り上げるという大仕事を終えた彼の頭にはもはや招待客のことしかないようだった。
そんな相方に、マスターハンドがようやく呟いた。

「どう伝えるべきか……」

重々しく、世の中にこれ以上悲しいことはないというような調子で。
その悲愴な呟きにクレイジーハンドもようやく指のダンスを止め、それからややあってくるりと相方の前に回り込む。

「なあ、当ててみようか。……ずばり、『あいつら』のことだろ」

指示語では答えも何も無いようなものではあったが、2人の間ではこれで意味が通じるのだった。

「その通りだ」

真正面で律儀に指を構えた左手に対し、マスターハンドはゆっくりと頷く。頷いてから、こう続けた。

「今回、選考から外れた彼らのことだ。
私達としても、より多くの者に来てもらいたい。真の進歩は――」

「『異なる者の出会いによって生まれる』だろ? もう耳にたこができるほど聞かされたぜ。まぁ、たこのできる耳もねェんだけどよ!」

自分で言った冗談を自分で笑い飛ばし、再びクレイジーハンドは相方に向き直る。

「だがな、それなら余計しっかりしなきゃダメだぜ。
オレ達は個性豊かな奴らをなるべくたくさん集めたい、けどもいっぺんに呼べる人数は限られてる。そんなら答えは一つしかない。
ちょっとずつ取っ替え引っ替えする。それがベストだ」

「その『取っ替え引っ替え』という言い方は良くない。まるで彼らが部品か何かのようだ」

左手の何気ない言葉を聞き逃さず鋭く指摘したマスターハンドに、相手は弁明することもなく全面降伏の意味で手を広げて見せた。

「あぁ。そいつは悪かった。
……招待状を受け取るのは紛れもなく『ひと』だ。ちゃんとハートがあるし、自分の頭で考えもする。
オレがもしあいつらの立場で、自分には今回の手紙が届いてないって知らされたとしたらそりゃ怒るだろうな。
怒らないまでもなんかを思いっきり壊したい気分になる」

「それは左手だけだろう」

揚げ足を取るというよりは事実を淡々と指摘するような口調でマスターハンドは言った。
しかし、その声にはいつの間にか最初の頃ほどの曇りや陰りが無くなってきている。
右手は巨大な手袋の姿で眼下の街に、朝陽を受けて輝く煉瓦とガラスとコンクリートの彫刻作品に向き直り、自分の言葉をまとめた。

「今は……前に進まなくては。
完璧を求めすぎてはいけない。理想は創造の大きな原動力であるが、それを追い求めることが目的になってしまっては元も子もない。
どこかで必ず終着点を、妥協できる点を見つけなくてはいけないのだろうな」

「そう。それが巡り巡ってあいつらのためになるのさ」

同じ方角を見つめて、クレイジーハンドは頷いてみせた。
言ってから、それがあまりにも自分らしくない発言であることに気づいたらしい。
すぐにいつものにやけた調子に戻り、彼は続けてこう言った。

「それに、次があるだろ? これで終わりってわけじゃない。
続けるつもりなら、そのうちまたあいつらを呼べるチャンスもやってくるさ」

と、そこで両手はぴたりと動きを止めた。
示し合わせたかのように空を見上げ、彼らにしか聞こえない何かに耳を澄ます。

広大な彼らの甲に影を落とし、一つまた一つと雲が流れていく。

「……ようやくお出ましだな!」

期待と愉悦を隠せない調子で言うが早いか、クレイジーハンドは飛び出していった。
すぐ傍でロケットの発射音じみた爆音を聞かされたマスターハンドは顔色一つ変えず、
空に真っ白な飛行機雲を残して飛び去っていく相方に向けてこう声を掛ける。

「粗相の無いようにな。彼らは我々の、そして皆の賓客なのだから」

緑の香りを含んだ風が平地を吹き渡り、遠くに立ち並ぶ木々をそよがせる。
休耕地か、あるいはそれを模した草原を真っ直ぐに突っ切るあぜ道。そこにその扉は浮かんでいた。
戸の色は磨き上げられた大理石のような純白で、いったいどんな素材で出来ているものか、内側から柔らかい光を放っている。

出現からほどなくして、扉が開く。
茶色のどた靴が2人分と、少し遅れてハイヒールが1足。よく固められた土を踏みしめた。
後から出てきた女性が日傘を傾け、小手をかざして空を見上げる。

「あら、良い天気ね! 晴れていてよかったわ」

キノコ王国の姫、ピーチはしばしその場に立ち止まり、青く澄み切った空を眩しそうに眺めていた。
故郷と似ているようでどこかが違う空。見慣れない場所に飛び込み、道行く一つ一つの物事に新鮮さを覚えるのも旅行の醍醐味だ。

「そりゃあそうさ。なんたって今日は記念すべき結団式の日なんだから」

先を歩きかけていた双子の兄弟も足を止め、こちらを振り返っていた。
ピーチに声を掛けたのは赤い帽子の方の男。彼、マリオは片手で帽子のつばをちょっと上げてみせ、こう続ける。

「いくらマスターハンドが凝り性でも、せっかくの初日を雨模様でスタートさせることはないだろうさ」

「それもそうね」

ピーチは笑顔を返し、歩き出そうとする。
と、そこで緑の帽子を被った双子の弟、ルイージが何かに気づいたように目を上げた。

「あれ……?」

なんだろう、と続けるよりも先にその輝きは青い光の帯をなして3人の横を通り過ぎ、軽快なブレーキ音を立てて止まった。

鮮明な青色の後ろ姿。針の毛並みを若者らしく整えた頭が振り返り、緑色の目がこちらを認める。
流れのままに若きハリネズミはサムズアップしてみせ、一言こう言った。

「Hey ya! また会ったな」

「ソニック! ついに君のとこにも届いたんだな」

久々の出会いに顔を輝かせるマリオ。

ソニック・ザ・ヘッジホッグ。彼とは以前開かれたスポーツ大会で競い合って以来になる。
その時にも2人は白熱したメダル争いを見せていたが、大会の開催期間はあまり長くなく、交流の機会も十分とは言えなかった。
だがその短い間に2人は良きライバルとでも言うべき仲になりつつあった。

再会の約束はしていたものの、こんなにも早く果たされるとは思わなかったマリオは表情に喜びも露わにしていたが、
やがてその笑顔に先輩として少しばかりの自負を付け加えると、腕を組んで言った。

「招待状を受けたってことは、ファイターとして一緒に闘うってことだな。
大乱闘はレスリングやなんかとはまた別物だ。分からないことがあったら俺達に遠慮無く聞いてくれよ」

これを聞き、ソニックは肩を一つすくめて笑った。挑戦的に口角を上げ、こう返す。

「あんたもまだ知らないことがあるんじゃないか?」

スニーカーで土を蹴る音がしたかと思うと、次の瞬間には彼はマリオの後ろに回り込んでいる。
マリオの肩にぽんと手を置き、息を切らせた様子もなくソニックは言葉を続けた。

「あの大会では"ちょっとばかり"手加減してたからな。You'd check it out, 本気の走りってものを見せてやるぜ」

その言葉が終わらないうちに彼は再び目の前に戻って、腕を組んでこちらの返答を待っている。
彼は競争を持ちかけているのだ。ここから城までの一本道で。
マリオの顔にも、やがて明るい笑顔が戻ってくる。答えは一つしかない。

「よーし。その挑戦、受けて立つ!」

大げさに拳を握りしめ、ポーズを取った。

「また兄さんたら……まだ結団式も始まってないのに」

大人げない兄に呆れ顔をするルイージ。

「それはそれ、これはこれ!」

そう言いながらマリオはソニックと共にあぜ道に引いた仮想のスタートラインに並び、クラウチングスタートのポーズを取る。
ピーチも2人の掛け合いを見ているうちにすっかり気分が乗ってしまったらしい。
肩を並べた2人の前に、閉じた日傘の先でラインを書き、進んでこんな提案までする始末だ。

「私が号令をかけましょうか?」

「ああ、ありがとな!」

マリオは顔を上げてそう返し、またすぐにコースの向こうへと視線を戻す。
彼女からお土産の入った籠を半ば強制的に持たされたルイージが後ろでため息をついているのも気に止めず、
ピーチは小さく咳払いをするとさっと片手を上げた。

「位置について、用意――」

少し改まった様子の声が、朝の涼しい空気に溶け込んでいく。

適当にあしらっているうちに、ようやくクレイジーハンドの興味を失わせることができたらしい。
サムスの見上げる先で巨大な手袋の後ろ姿は青空に消え、後には飛行機雲だけが残っていた。
おそらく別の獲物を探しに行ったのだろう。その誰とも分からない獲物に少しばかりの同情を送り、彼女は再び歩き始めた。
城に着けばどのみち皆に会えるのに、ああして手当たり次第に向こうから尋ねてくるのはどういう心理なのだろうか。

この世界の「設計」が大幅に変わっていなければ、城への道は幾通りもある。
それでも、招待されるファイターの数が増すにしたがって、城に着く前の道すがら誰かしらと会う頻度が上がっているようだった。
後ろから名を呼ぶ声がして、サムスは立ち止まった。ヘルメットを巡らせ、肩越しに振り返る。
茶褐色の陸生生物――"馬"を引き連れた青年がこちらへやってくるところだった。

彼自身は馬にまたがっておらず、鞍の上で横座りしているのは茶色の長髪を瀟洒な意匠で結った女性。
サムスの名前を呼んだのは彼女の方だった。

馬の手綱を引いてこちらまでやってくると、古風な身なりをした金髪の青年、リンクは会釈した。

「お久しぶりです」

彼の生真面目さは相変わらずのようだ。自分自身では気づいていないようだが、敬語がどこか板に付いていない所も。
バイザーの後ろで懐かしさに思わず口元がほころぶのを意識しながら、サムスも頷きを返す。

「リンク」

馬上から姫が呼んだ。

「ここで止めて。私も歩きます」

有無を言わせぬ口調だった。

「しかし、姫――」

彼が戸惑っているのにも構わず、馬が立ち止まった所で彼女は鞍に手をつき立ち上がろうとする。
青年の勇者は慌てて彼女の前に回り、手を差しのべて彼女が降りるのを手伝うことになった。
顔に白い線の通った馬はそんな2人を横目で眺め、悠々と房のような尾を振っている。

彼が馬の手綱を再び取っている間に、彼女、ゼルダはサムスのところまでやってくると隣に並んだ。
本当にこのまま歩いて行くつもりらしい。彼女が歩き出したのに合わせてサムスも自然と歩を進めていた。
後ろで馬の足音も再開した。どこかのどかな音が規則的に聞こえてくる中、ゼルダがこう切り出す。

「お変わりありませんか?」

「相変わらず、と言ったところだな。方々の星を行ったり来たり」

口調の端に滲んだ慢性的な疲れに気づいたのだろう、異国の姫はふと笑ってこちらを見上げた。
普段は繊細で厳かな装いに隠され、意識されない年相応の明るさが顔をのぞかせる。

「では、良い休暇になりますね」

「そうなることを願っている」

主にクレイジーハンドのことを思い出しながらサムスはそう返す。
ゼルダも特に気を悪くした様子も無く視線を前に戻した。
あまり多くを語らない彼女が本当は何を意図しているのか、それを汲み取れないほど疎遠な仲ではないのだ。

彼女にとっては"前回"からどれだけの時間が経っているのだろうか。
凛とした眼差しにどこか期待を含ませた姫を横から眺め、サムスはそんなことを思った。

眼下に大都市を望む小高い丘。
その頂上に自慢のバイクを停め、寄りかかって休憩する小太りな男がいた。

今日の彼は冒険する時に着るようなオーバーオールではなく、
ノースリーブのジャケットにピンクのズボン、頭にはゴーグルつきのヘルメットを被っていた。
もう少し痩せて背が高ければ格好いいのだろうが、シャツを大きく膨らませている堂々たる腹回りを見れば、
彼の頭にそもそもダイエットの文字が存在していないことは明白だった。

その男、ワリオは手にしたリンゴ――ほどもあるニンニクをかじりながら街の方角を眺めていた。
背後の方にある城には目もくれない。彼の気を引くのは古くさい灰色の城なんかではなく、ピカピカに輝いた摩天楼。
街のあちこちから漂ってくる金儲けの素敵な香りだった。

「へっ! いかにもあいつらの好きそうな街だな。お上品で、お高くとまってやがる」

何かと目の仇にしているマリオ達が先にこのフロンティアに招待されていたことがよほど気にくわないらしい。
そんな憎まれ口を叩きつつも、彼の頭の中ではさっそくいくつもの商売アイディアが浮かび上がっていた。
こう見えても彼はゲーム会社やレースサーキット、金鉱にスキー場と両の手では数え切れないほどの商売事に手を出しているのだ。

社員に前もって調べさせた情報によれば、この世界には大乱闘を見るために毎日数百万人もの観光客が訪れるという。
そのうちの何割かは宿泊施設を見繕って泊まり、バスやら電車やらに乗って今日はこっち明日はあっちと、ほうぼうのスタジアムを巡り歩く。
食費に交通費、入場券やら回数券やら諸々のチケット。彼ら観光客が落としていくカネは計り知れない額になるはずだ。
しかし、その大方はすでにシステムが出来上がってしまっている。そこに何とかして食い込む方法は無いものか。

「そうだな。手始めに土産物を売ろう。
なに、相手は右も左も分からん田舎っぺだ。がらくたを売りつけたって喜んで買うにきまってる」

そう独りごちてにんまりと笑い、彼は割れた顎をさすった。
この時の彼はまだ、観光客が『スマッシュブラザーズ』の世界から一切の物を持ち帰れないことを知らない。

ほとんど悪だくみに近い構想を練っているワリオだったが、あまりに考え事に夢中になっていたばかりに辺りへの注意がおろそかになっていた。

坂の下から何者かが駆け上がり、弾丸のような勢いで飛び込んできた。

「ぬおぉ?!」

そのピンク色の砲弾が足元までやって来たところでワリオはようやく我に返り、咄嗟に飛び退く。

驚いたような子供の声、そして衝突音。

身構えた彼の見る前で、盛大な花火が上がる。
砲弾の直撃を受けたチョッパーバイクが積み木の玩具のように吹っ飛び、呆気なくばらばらになってしまったのだ。
自分の寸法にしっくり馴染むよう改造をかけ過ぎたのがよくなかったらしい。溶接の甘かったパーツが斜面を転げ落ちていく。

「おぉい! お前っ、なにしてくれてんだよオレ様のバイクに!」

かんかんに怒っているワリオ。彼が睨みつけている先には地面にうつ伏せに倒れているピンク玉の姿があった。
そいつのことはどこかで見たような気がしたが、今は悠長に記憶を漁って名前を思い出している場合ではない。

だが相手はワリオの方を見上げもせずにむくっと起き上がると、斜面の向こうに何かを見つけて目を輝かせた。
そのまま立ち上がると丘を駆け下りていく。彼の向かう先にあるのは、元は一台のバイクだった哀れな残骸の集まり。
彼は転がってるタイヤをホイールごと吸い込んだかと思うと、そのまま飲み込んでしまった。

ここまでの一連の流れを目の前で見せられ、その間相手に全く気づかれなかったワリオ。
完璧に無視され、あまりのことに出掛かった文句も立ち消えて、ただあんぐりと口を開いているばかり。
ピンク玉が丸っこいタイヤに変身して走り出し、だいぶ遠ざかってしまったところでようやく彼の頭に一つの現実が追いつく。

「ドロボー! タイヤドロボー!
返せ、はき出せ! そいつはオレ様のもんだ!」

頭の上でニンニクを持ったままの手を振り回し、猛然と坂道を駆け下りていく。
後には草むらの中、ほとんどフレームだけになってしまったバイクが取り残されていた。

まばゆいフラッシュライトは機体後方に消え、コックピット一面の白を塗り替えて素晴らしいほどの晴天が姿を現す。
狐顔のパイロットはそんな空模様に見とれることもなく、その緑の瞳で油断なく計器の値を確かめていた。
それから片手を操縦桿から離し、慣れた手つきで頭上のスイッチを切り替えていく。

――視界良好、全方位……

異常なしと言いかけて、彼はふと横に視線をやった。
少し離れたところにもう一機、同じ方角を目指して飛んでいく船があったのだ。

いや、果たしてそれを"飛んでいく"と言うことはできるのだろうか。
ずんぐりと丸っこく、いかにも子供が玩具として持っていそうな形をしたその機体は船尾を危なっかしく振りながら見る見るうちに高度を下げていく。
あのままでは森に落ちてしまう。ほとんど考える間もなく、フォックスは舵を切っていた。

パイロットの意思に答えてアーウィンは空に滑らかな曲線を描き、不明機に近づいていく。
装甲の継ぎ接ぎが見えるような距離まで来た辺りで併走に切り替え、彼はヘッドセットのマイクに手をやった。
短く二度シグナルを送り、マイクの向こう側に呼び掛けた。

不明機アンノウン、こちらアーウィン。応答願う」

骨伝導ヘッドホンが微かに震える。
物をがさがさとひっくり返しているような音がしばし流れ、その向こうからようやく男の声が聞こえてきた。

『こちらドルフィン号。どうかしましたか?』

声の感じからするとそれほど若くはないが、年を取りすぎてもいない。
ロケットがひっきりなしにふらついているのにも関わらず、それを運転する彼の声はのんびりとしていた。
それでも念のためにフォックスは尋ねる。相手を民間機と見積もり、それに合わせた口調に変えて。

「エンジントラブルか? 何か手助けが必要なら言ってくれ」

『あぁ! ご心配なく。いつものことです』

いかにも人の良さそうな声が、少し照れくさそうにそう言った。
彼の言葉の通り、やがてドルフィン号は赤く塗った船首をぐいと上げ、姿勢を持ち直した。

他に誰か、あるいは何かを乗せているのだろうか。
男が口をつぐんでいても、ヘッドホンの彼方からは何やら甲高い鳴き声のようなものが聞こえていた。
小さな生き物がひしめき合い、ひそひそと話し合っているような声だ。

『あまりにもきれいな星だったので、見とれていたんです。
それでつい、運転がおろそかになってしまって』

操舵で途切れていた声が戻ってきた。

「そいつは、あまりおしゃべりしてるとまずいんじゃないか?」

まだ船尾をふらつかせているドルフィン号を見ながら、フォックスは笑いを含ませてそう言ってやる。

『大丈夫です。むしろ、かえって目が覚めて良いかもしれません』

そこで少しの間を置き、彼はこう切り出した。

『ああ、申し遅れてしまいました。私はオリマーといいます』

目の前にいたら名刺でも差し出していそうな口調だ。もしかしたらどこかの会社員なのかもしれない。
だが一介の会社員がファイターに選ばれるだろうか?
少し考えてから、フォックスはそれもあり得ることだと結論付けた。正しくは、「ここではあり得ないことは無い」と。
次の一瞬に何が起こるか分からないのが『スマッシュブラザーズ』だ。それが面倒でもあり、また楽しくもある。

「フォックス・マクラウドだ。これから宜しく頼む」

まだ姿も知らぬ仲間に向けて、彼はそう挨拶した。

荒野に、翼を備えた影が走る。

巻き起こるつむじ風に、石くれの隙間から顔をのぞかせた苔色の植物が乾いた音を立てて揺れる。
砂塵を切って矢のように進む紫紺の翼。小柄なその姿が一つ翼をはためかせると、目の前の光景が一変した。

眼下、はるか下に開けたのは広大な深緑の絨毯。
ここでは木の一本一本が大きく思える。しかし葉の方はポップスターで見慣れた木々よりもずっと小さいようだ。
赤茶けた台地を越えた剣士はその仮面に表情を隠しつつも、新たに現れた光景を興味深げに観察していた。

続いて右手側に視線を向ける。
森を越え、いくつもの丘陵地帯を越えた向こうに見えるのはやたらと背の高い建物の集まり。ここから見るとまるで剣山のようだ。
数え切れない種類、思いつく限りの建造物が寄り集まっていたが、目的の"城"と思しき建物は見あたらない。

翻って、左側へ。
まず目に入ったのは森を切り拓いて作られた、ずいぶんと大仰な闘技場。
ドーナツのような形をしたそれは、下部に気球でも埋め込んであるのか地面からわずかに浮かんでいた。
内部を見ると、中央には舞台が一つ。そこから周辺の観客席までは安全のためか、かなりの距離が開いている。
どうやら闘技場がここまで広いのは舞台の広さだけでなく、この安全措置のためでもあるようだ。

そこまでを推測したところで、彼はふと思い立ってそちらの方角に進路を定めた。
まだファイターとしての生活は始まっていないが、見学していくくらいでは咎められまい。

高度を少し下げ、スタジアムの全容がよく見える辺りまで接近する。
外縁から近づいていき、観客席が広がる緩いカーブに沿ってスタジアム上空をゆっくりと一周していく。
座席は全てつや消しの黒に塗られており、客のいない今はまだ座面の部分が跳ね上げられたままになっていた。
観客席は二階建てで上下の二段作られている。それが、放送席だか優待席だかのボックスを除いたほぼ全周を埋め尽くしているのだ。
こんなに人が集まるものだろうか、と彼は訝しげな目を向けていた。

大方一周し終えたところで、ようやくその眼光が中央に浮かぶステージを捉える。
銀の縁取りが施された紺色の平面。遮蔽物も浮遊物も無く、ただ一心に対戦相手と闘うための舞台。

ふと、そのステージに降り立ちたいという欲求がよぎる。
しかし彼は頭を振ってそれを打ち消した。いつになく自分の心が滾っていることに気がついたのだ。
どこで誰が見ているか分かったものではない。とかく第一印象というものは根強く残りがちだ。
ここで初めて出会う戦士達に大人げない様子を目撃されてはかなわない。

心を切り替え、二階建ての観客席を一息に飛び越える。

スタジアムの外縁、フェンスを乗り越えた向こう側にも森が広がっていた。
そしてその先、自然の造形とは異なるシルエットが佇んでいる。
剣士は目を凝らした。木立よりもはるかに丈が高いにも関わらず、その建物は奇妙なほどの親和性で背景に溶け込んでいるようだ。

それをようやく見定めた時、唐突に背後から声が掛けられる。

「すいませーん! あなたもファイターですかー?」

聞き覚えのない声だ。自分やカービィの他に空を飛べる者がいたのか。
少し意外に思いながらも彼はその場で制動を掛け、後ろを振り向いた。

まず目についたのは妙に手足の長い姿。
明るい茶の頭髪に、澄み切った青色の瞳。身を包む衣は快晴の空に浮かぶ雲のように白い。
背中に備わった翼はあの封印されていた戦士を連想させる鳥の翼で、神秘的に揺らめく青い光を纏わせている。

誰何しようとした先で、近づいてくる相手の方角から別の声が聞こえてきた。

『おめでとう、ピット。第一村人を発見したようですね』

「だっ……」

異邦人は面食らったように目を瞬き、思わずそこで止まってしまう。
停止飛行したまま、それから彼は肩口に付けた宝飾に向かってこう言った。

「もう、止めて下さいよパルテナ様!
そんな調子だと僕達、変な人だと思われますよ?」

宝石の部分が赤く明滅している。それで通信を受け取っているのだろう。
光っている辺りから、落ち着き払った声が聞こえてくる。

『大切なのはインパクトですよ。これから先、どれだけ個性的な人と会うと思っているのですか?
せっかく異なる世界の人々に会えるのですから、相手の心に穴を穿つほどの勢いで印象を残してきなさい。
あんまりおとなしくしていると、あっという間に目立たなくなってしまいますよ』

「別に目立たなくったって良いじゃないですか……。
芸人やなんかを目指してるわけじゃないんですし。
とにかく、お願いですからもうちょっと静かにしていて下さい」

『仕方ありませんね。
そこまで言うのなら勝手になさい。私はこちらで留守番してますからご心配なく。
あなたは一人で存分に遊んでらっしゃい、親衛隊の隊長様』

「あっ、パルテナ様?――」

通信相手はすっかりへそを曲げてしまったらしい。
異邦の人が呼び掛け終わらないうちに宝飾品の輝きは消え、声も途絶えてしまった。
彼はがっくりと肩を落とし、ため息をつく。メタナイトは彼が顔を上げるまで待っていた。

程なくして異邦人は自分のしようとしていたことを思い出したらしい。
はっとこちらに顔を向け、忙しげに目を瞬く。逡巡の後、彼はまずこう言って謝った。

「お騒がせしてすいません。
あなたのお時間を取ってしまうつもりではなかったのですが……」

「大したことではない。それよりも、何か用があったのか?」

そう答えると、相手はちょっと驚いたような顔をした。
一体どこに驚く要素があったのだろうか。返し方が間違っていたのか、どこかに訛りでもあったのか。
理由は分からなかったが、まじまじと凝視されるのはあまり良い気分ではなかった。

「ああ、あの……集合場所についてお聞きしたくて」

ややあって彼はそれまでの調子を取り戻し、そう答える。
それからこちらの後ろを指さし、続けてこう言った。

「招待状に書かれていた城って、あの建物で良いんですよね」

指さされた先にあるのは、森の中に佇む古城。

「おそらく。まずは向こうまで行って、確かめてこようと考えていたところだ」

言ってから、少し考え込む間があって剣士はピットに視線を向け、こう付け加える。

「君も来るか?」

森にほど近い小径。
道ばたには角の丸い円錐形に刈り込まれた小さな針葉樹が植わり、その下からは野花が顔をのぞかせている。
等間隔に植えられた小木が風に枝をそよがせる中、この緑に満ちた光景にはそぐわない存在が佇んでいた。

六角形の台座を地面からほんのわずかに浮かせた機械。白とえんじ色に塗装されたボディ。
ちょっと旧式の双眼鏡に似た四角い顔を仰向かせ、辺りをおずおずと見渡す。
やがてため息らしき電子音を立てると、彼はヘッドを項垂れさせた。

そのカメラアイに青い光が灯り、視線を落とした先の地面にホログラムを映し出した。

『おお、どうしたのかね?』

ヘクター博士は彼からのメッセージを待ち受けていたらしい。
何かトラブルがあったのか、それともさっそく何かを発見したのか。
期待が7割、不安が3割で混じり合った博士の顔は、やがて笑い一色に変わる。

『そうか、道が分からなかったのか。
周りに誰かいないか? 君のように呼ばれた人がいるはずだ。その人に尋ねてみると良い』

それを聞いてロボットはちょっと抗議するような声を上げた。

『何、テキストメッセージを送れない相手だったらどうするんだと?
ふむ……まぁ、いつもの探検と同じだと思いたまえ。言葉が通じなくとも何とかやっていけるものだ。
ははは、そんな心配そうな顔をするな。私はいつでもここで待っているから。
……そら、誰か来たようだぞ』

後ろ手に組んだ博士の小さなホログラムが道の向こう側を見やり、ぼやけて消えた。
あくまでコミュニケーションはロボットに任せるつもりのようだ。これも博士が彼の成長を願っているからこその行動だろう。
意を決してロボットは顔を上げ、後ろを振り向く。

森と平原の境目、そこに立っていたのは恐ろしく時代がかった鎧に身を包んだ青年だった。

紺色の髪を短く切りそろえ、額には細長いバンダナのようなものを締めている。
その下にある表情は、ロボットのデータバンクから推測すると「軽い驚き」のレベルに当たる。
彼はロボットが振り返ったところで固まってしまったように立ち止まり、背後ですり切れたマントとバンダナの端がいたずらに風に遊ばれていた。

青年の方もまた、森をぬけた先にいた何者かの姿を凝視していた。
初めに見つけた時は遠目ではあったものの全く動いていなかったので、てっきり何かの置物かと思い込んでいた。
それ以降は特に注意も向けず歩いていたので、まさかここに来て突然動き出すとは思っていなかったのだ。

背に掛けた両手剣、ラグネルを構えることも忘れ、奇妙な鋼鉄の塊を見つめるアイク。
ただこちらが近づいたことに反応して動いただけなのか、それともそれ以上の何かを仕掛けてくるつもりなのか。
それ以前に、一体これは誰のどういう企みでここに置かれているのか。

長年の鍛錬で染みついた思考から、一定の距離を置いて立ち止まり相手の出方を窺う。
両手にはなんの武器も持っていなかったが、見る者が見れば臨戦一歩手前の姿勢を取っていることが分かるだろう。

準警戒態勢。その沈黙を破って動いたのはロボットの方だった。

相手の目をじっと見つめ、何か言いたげな電子音を鳴らしながら二本のアームを振る。
もどかしげにジェスチャーを取りかけて止め、視線を落として困ったようにアームの先を合わせる。
コの字型の手が軽くぶつかり合い、カシャカシャと音を立てていた。

まるで、内気な子供が何かを解決できずに途方に暮れているような格好だ。
その様子を見ていたアイクは、ややあってから試しにこう言ってみた。

「……何か、言いたいことがあるのか?」

まだその声には警戒が残っていたが、彼は目の前にいる物体がただの置物ではないことに気づき始めていた。
何かの仕掛けにしては妙に人間くさい動きをする。もしかするとこの外見は何かしらの鎧で、中に誰かが入っているのかもしれない。
そうであって欲しい。そうでもなければこんな金属の物体に話しかけるなんて、馬鹿馬鹿しくてやっていられない。

反応が返ってきた。金属の塊が頭と思しき部分を嬉しげに頷かせたのだ。
それから辺りを見回し、軽く頭を俯かせる。次に起きたことを目の当たりにして、アイクは思わず一歩後ずさってしまった。
相手の目が青く光ったかと思うと、地面から絵が浮かび上がってきたのだ。だが、それ以上は何も起こらない。

心を落ち着けてから、妙に目がチカチカする色で描かれた絵に注意を向ける。
長方形の薄っぺらい手紙。ロウで封がされている。青味がかってはいるが、何を映しているのかは彼にも分かった。

「招待状を見せて欲しいのか」

通行書代わりに見せてくれと言っているのだと思ったのだ。
しかし、金属の物体は瞬きして幻の絵を消すともどかしげに首を振った。
再びこちらの目の前に視線を落とすと、手紙の絵をもう一度映し出す。

絵が、動き出した。
誰も触れていないのに独りでに封筒が開き、中の手紙がするりと抜け出して広げられる。
折り目も分からないほど真っ直ぐになった手紙、その下段の方にひときわ明るい青で線が引かれていく。
どうやらここに注意を向けて欲しいらしい。招待状を出すために背嚢を下ろそうとしていたアイクは、その手を止めて線が引かれた文章を目で読んだ。

『扉を抜けた後はこちらの"城"までご足労願いたい』

道案内をしようと言っているのだろうか。それを尋ねかけたが、直前で何かが心に引っ掛かった。
思い出したのは先程相手が見せた、途方に暮れた雰囲気の仕草。あちらから提供するものがあるにしては妙に頼りない様子だった。
そこまで考えたところで、ようやく問題が解けた。

思わずふっと笑い、彼はこう言った。

「なんだ。お前、道に迷ってたのか」

それを聞き、金属の塊は今までで一番嬉しそうな様子で頭を頷かせる。目が輝いているように見えたのは気のせいだろうか。
ついてこいと言ってやり、アイクは再び歩き始めた。ゼンマイを巻くような音を立ててそいつも動き始める。

城に用事があるのなら、この金属の物体も――こいつもおそらくはファイターなのだろう。
どうやって闘うのか見当もつかないが、選ばれたからにはそれ相応の力を持っているに違いない。

――だが、あまり話の通じない奴ばかりだと面倒だな……

道の先、朝靄に青く煙る城に難しげな顔を向け、彼は心の中でそう独りごちた。

木漏れ日に照らされた空き地を、そよ風が吹き抜けていく。

どこか遠くで名も知らぬ小鳥がさえずり、周囲の森はさわさわと心地よい音を立ててそよぎ、
木立を透かした向こうには抜けるような青空が広がっている。

そんな穏やかで平和に満ちた自然を舞台にして、その扉は浮かんでいた。
純白に輝く、1枚の扉。
その向こうは謁見の間か、はたまた荘厳な神殿か。
開け放たれた扉の向こうには眩しいばかりの白さが広がり、その先を見通すことはできない。

風に呼応して揺らめく光を纏う扉。

その扉を前にして、うつ伏せに倒れている人影があった。
金色のくせ毛を持つ少年。年の頃は十歳を越えたあたりだろうか。
足の方を扉に向けている様子を見ると、彼はどうやらこの開かれた扉の向こうから出てきたらしい。
気を失ったままこちら側に来たのか、それともくぐり抜けた後で倒れてしまったのか。傍目からではいずれとも分からない。

扉はやがて誰が押すまでもなく独りでに閉まり、質量を感じさせないままふっとかき消える。
後に残された縞シャツの少年は――リュカは、しばらく倒れたまま動かなかった。

やがて、ゆっくりと意識が戻ってくる。

彼が初めに感じたのは、全身を包み込む日の光の暖かさだった。
髪をそよがせるものと同じ風が辺りの草むらも優しくなでつけ、さらさらと川のせせらぎにも似た音が辺りに満ちている。
体を受け止めている草原は自然のままに伸びつつも一定の長さまでに留まり、肌にあたる感触は絨毯のように柔らかかった。

このまま眠ってしまいたいほどの心地よさだった。
そう考えた途端、今まで彼を包み込み安寧を与えていた眠気が再び波となって押し寄せ、彼の意識をさらっていこうとする。
暖かな日差し、柔らかな草地、そして陽だまりの香り。リュカは抵抗せずに眠りの海に沈もうとした。

だが、何かが彼を捕らえて離さない。そこはかとない疑問と不満を覚えながら、彼は目を開ける。

その時、彼の頬を何かが伝っていった。

「……」

反射的に手の甲で拭い、ややあって彼はそれを怪訝そうに見つめる。
陽光を跳ね返し、きらきらと輝く透明な水。それは、涙だった。

――なんで……?

涙なんて流したこともなかった。いつとも分からない昔から。

来る日も来る日も泣き通し、声が枯れてもなお顔をうずめてしゃくり上げていた日々。
それはもうリュカにとって遠い過去のものとなっていたはずだった。
彼は乾ききった地平の果てに、答えを見つけたのだ。泣いたってどうにもならない、なんのためにもならない、と。
だから、いつしか彼は無意識のうちに自分が泣くことを禁じていた。

でも、目の前にあるそれは事実だった。

――……なんで、僕は泣いてるんだろう。

半ば呆然とそう思った。

手の甲を見つめていたその目が、不意にこわばる。

はっと息をのみ、目を見開いて彼は立ち上がろうとした。
慌ててついた手が土を掴み、踏みしだかれた草が青い香りをまき散らす。

長く張り詰めた沈黙が過ぎ去り、やがて彼の背からゆっくりと緊張が抜けていった。

「……あぁ」

中途半端な姿勢のまま、そこで彼は落胆にうちひしがれたようにため息をつく。

間に合わなかった。逃げ去ってしまったのだ。

目を覚ましたばかりの頃、彼の心に辛うじて残っていた何か大切なもの。
それが裾を翻し、わずかな欠片も残さずに消えてしまった。
一体自分は何を忘れてしまったのか、何を捕まえ損ねたのか。
それさえも定かではなかったが、どれほど大切なものだったのかは、今の自分が感じている喪失感の大きさを思えば明らかだった。

目に映る森は青々とした葉を豊かに茂らせ、朝の日差しが自分の顔を優しく照らしている。
見上げた空はどこまでも青く、そこには羊のような雲が群れをなして浮かんでいる。
だが、そのどこにも彼の求める答えは存在していなかった。

木々の茂みにぽかりと丸く開けた空。それを見ているうちに、まるで自分が井戸の底にいるような気分になってくる。

――僕は、いったい……

胸を引き裂かれそうな悲しみに唇を噛みしめ、リュカは自分の手を見つめた。
そうすれば何かを思い出せるのではないかというように。
今、自分が感じている感情は本物だった。まるで胸に楔が打ち込まれたかのような、自分という存在に穴が開いてしまったかのような悲しみ。
けれども、一体なぜ自分がそんな感情を覚えているのか、どれだけ頭を悩ませても理由が見つからないのだ。

しばらくそうしているうちに、胸の苦しさは少しずつ薄れていった。

涙の跡を消し去ろうとするように少年は乱暴に腕で目をこする。
そしてその青い瞳を伏せ、ため息をついた。その息はまだわずかに震えていた。

腑に落ちない点は多々あったが、彼はとりあえず自分の納得できる説明を見繕っていた。
自分にとって何よりも大切なものは、考えてみれば他に何も無いのだ。
きっと、また家族の夢でも見ていたのに違いない。誰一人として欠けていない、本当の幸せに満ちていたあの頃の夢を。

浮かない顔をして背を丸め、地面を見つめていた彼の後ろで誰かの声がした。

「おーい!」

リュカは少し遅れて顔を上げ、訝しげに振り返る。

「おーい、大丈夫か?」

野草の茂みをかき分けて、1人の少年が走ってきた。
気の強そうな目をした少年。その足が地面を蹴るたびに金色の髪は元気よく跳ね、背中の荷物が賑やかな音を立てる。
返事をしたものか、どうしたものかとリュカが迷い、向こうの方を見たりしているとこんな声が掛けられた。

「あんたのことだよ。そんなとこでしゃがみ込んで、どうしたんだ?」

彼はもう茂みを踏み越えて、リュカのいる開けた場所に辿り着いていた。
答えを返すのも忘れて、リュカはきょとんと目を瞬いて相手の顔を見上げる。

まず目についたのは、動物のように尖った耳。それだけでも普通と違うのに、彼の格好は至る所が風変わりだった。
上に着ている緑色の服は誰かのお下がりなのか、丈が長すぎてまるでスカートみたいになってしまっているし、
ツンツンと尖った金髪をまとめる帽子は先細りの房になって背中の辺りに垂らされている。
おまけに、長いブーツのあっちこっちには走ってくる途中でくっついたらしい草の切れ端が絡みつき、草の汁が滲んでいた。

ぽかんと口を開けて眺めているうちに、リュカは相手がその背に盾と鞘を掛けていることに気がつき、ますます目を丸くした。
彼は武器を持っている。村の大人でも持ったことがないような武器、剣を。
おもちゃにしては作りが細かすぎる。まさか――いや、もしかすると、あれは本物の剣と盾なんだろうか。

「……あんた、大丈夫か?」

返事がないことに訝しんだか、少年はリュカの目の前に手をかざし、振って見せる。
仕草や背格好から考えて、どうやらこの少年はこちらとさほど変わらない年齢であるようだった。
そのことに訳も無く励ましを得て、リュカは少しうわずった声ではあったもののようやくこう言うことができた。

「……君は?」

やっと相手から意味のある言葉が聞けて安心したらしい。
金髪の少年は勝ち気な瞳でこちらを眺め、苦笑と純粋な可笑しさの混じり合った笑いを見せて言った。

「おいおい、先に聞いたのはこっちだろ?
ま、でもその様子だと大丈夫そうだな。自分の名前は分かるか?」

どうやら、こちらが頭でも打ったのではないかと思っているらしい。
まず何から言うべきなのかとリュカが迷っていると、向こうの方からきっかけを作ってくれた。
少し誇張した仕草で腰に片手を当て、彼は軽く胸を張る。

「おっと、自己紹介するんならまずこっちから言わなきゃな。
おれはリンク! お前は?」

「僕は……」

言おうとした言葉は、途中で胸につかえて消えた。

不思議な感覚がよぎる。

いつか、どこかでこんなことを経験した気がする。
でも、そんなはずはない。だって、彼とは今会ったばかりなのだ。

その錯覚は一瞬にして消え去ってしまったが、それでも、彼は自然と顔を上げていた。
臆することなく相手の目と向き合い、こう答える。

「僕は、リュカ」

「よし! ちゃんと名前も言えるみたいだな」

そう言ってリンクは白い歯を見せて笑った。

からかわれているのに、不思議と悪い気はしなかった。
目の前から感じる心は夏の空のように明るく、開けっぴろげな感情に満ちていたのだ。
ここまで晴れやかな心の持ち主なら、何を言われてもかえって裏表が無くて楽かもしれない。

そんな思いにふけっていた彼は、ふと考え事を中断する。
目の前に、こんな声と共に手が差し出されていた。

「これからよろしくな、リュカ!」

――"よろしく"?

一体なんのことだろうかと眉をひそめかけ、そこでリュカは招待状のことを思い出した。
『スマッシュブラザーズ』。いろんな世界から集められた人達が技を競い合い、共に闘う場所。
マスターハンドという人からいきなり送られてきた白い手紙。見上げた月、夜空の何も無いところから落ちてきた不思議な招待状。
ほんの数十分前のことではあったが、あの瞬間の自分を取り巻いていた全ての風景が彼の目に鮮明に甦る。

――そうか、リンクもファイターなんだ。

自分のような年頃の子供も他にいたのだと知り、安堵を覚える。

こちらを真っ直ぐに見つめてくる彼の瞳には様々な感情が渦巻いていた。
純粋にこちらと友達になりたいという気持ち、競い合えばこちらの方が上だろうというなという少しばかりの自負、
それとも見かけによらず強いのだろうかという用心深い推量。

そこで我に返り、リュカは目の前に差し出された手の平に意識を戻す。
異国の少年が待っていた。降り注ぐ木漏れ日が彼の何もかもが風変わりな格好を照らし、明るく染め上げていた。

この先、何が待っているのだろう。どんな人が迎えてくれるのだろう。自分はその中で、うまく暮らしていけるのだろうか。
リュカは招待状を受け取ったあの時のように、胸が再び高鳴るのを感じていた。
期待と不安がせめぎ合う。何もかもが初めてで、何もかもが変わっている。
見知らぬことの連続で、その嵐の中では自分を保つことだけでも精一杯になってしまいそうだ。

それでも、リュカは不思議とその混乱が新鮮で心地よいものであるように思えていた。
こちらに来て初めて出会ったファイター、同じ年頃の彼から伝わってくる芯の通った感情の輝きを見つめているうちに、
心の内に広がっていた臆病な気持ちも不安な震えも、ちっぽけでどうでも良いことだと感じられてきたのだ。
まるで、長い間自分の頭上を覆っていた厚い灰色の雲が薄れ、その向こうから眩しい日差しが差し込んできたかのような、
そんな高揚に包まれて、リュカは心の中で自分にこう言い聞かせる。

大丈夫だ。きっとやっていける。
そう、ちょっとずつでも良い。少しずつ変えていこう、これからの自分を。
強くなる、強くなってみせる。そのための一歩を、勇気を出して踏み出すのだ。

束の間、リュカはこちらに向けて開かれた手をじっと見つめ――意を決して、その手を取った。



  Open Door!  ~story never ends.


あとがき

最終更新:2016-12-04

目次に戻る

気まぐれ流れ星

Template by nikumaru| Icons by FOOL LOVERS| Favicon by midi♪MIDI♪coffee| HTML created by ez-HTML

TOP inserted by FC2 system